噴火前と噴火後

今日は朝から雨。ここのところ三宅島は雨が多く、風も強い。やはり太平洋に浮かぶ島である。内地(日本列島)に比べて、太平洋からやって来る低気圧や前線の影響を強く受けるのだろう。中桟橋に行くと、使用場所を示す三角コーンが風でだいぶ動かされていた。かなりの強風である。聞く所によると風速40mくらいは、島の人はさほど驚かないらしい。冬になるともっと風は強くなり、海水が巻き上げられ潮の雨が降って、その雨が乾くと車は真っ白になってしまうと聞いた。

 

島に到着してから、人との出会いの流れで、ほとんど三宅島を回らずに制作に入ったため、今のところ阿古地区周辺しか行動していない。滞在中、この後1人になる期間もあるので、生活に困らないように、商店や食べ物屋さん、ガソリンスタンドや郵便局など、どこに何があるのか島内の主要なポイントを、今年の7月に三宅島入りした三宅島大学マネージャーの猪股さんに案内してもらいながら、午前中は雨の三宅島を一周ドライブすることにした。

 

印象に残ったのは、どこまでも広がる海と、黒い溶岩、そこから伸びる立ち枯れた真っ白な木の幹群、そして全体を覆おうとしている緑の植物。気が枯れたのは火山ガスの影響だそうだ。生活していると、村役場から島内放送がよくある。内容は主に2種類。1つは東海汽船の停泊場所や出港時間変更のお知らせ。もう1つは、火山ガスの濃度レベルの報告と注意である。高濃度地区もあったりする。窓を開けて運転をしていると、たまに温泉街で嗅いだことのある硫黄の匂いがする。それが火山ガスらしい。自分には何の影響もなく、温泉街と変わらないようにしか思えないが、中には高感受性者もおり、喘息になる方もいるとのこと。現段階では生活する分に、自分には何の問題もない。

 

三宅島は約20年ごとに噴火をしているそうで、全開は2000年、その前は1983年。島で出会ったたいがいの人はその両方を体験している。2000年の噴火は島外への避難が必要となり、4年半帰って来られなかった。噴火前と噴火後、何が変わったのだろうか。

 

島の人から聞いた話で印象的だったのは、島に戻ってきた時の印象は、山の形が変わっていたということと、人が減っていたこと。人が減った理由は、噴火で死者が出て多くの人が減ったのではなく、東京都内に避難して、そのまま島に戻らなかった人が多いそうだ。

 

逆に増えたのものは、カラス、ネコ、カエル、カミキリムシ。ネコは飼い猫を放して島を離れたので繁殖したそうだ。カエルは噴火でヘビがいなくなってしまったから天敵がいなくなり増えたとのこと(今三宅島にはヘビがいないらしい)、カミキリムシは立ち枯れの木が最高のエサであり繁殖場所となり噴火前の2000倍に増えたそうだ。カラスはよく分からないが逞しく生きたのだろう。

 

海はどんな変化があったのだろうか。こんど漁師さんに聞いてみようと思う。

 

噴火前と噴火後、増えたものと減ったもの、いろいろ聞いたが、やはり、「人が減った」というその一言が深く胸に刺さった。噴火はきっかけでしかない。もどってこようと思わなかったのである。

 

東日本大震災もそうだが、「自然災害」と「人と土地のつながり」。このことについて考える。結論は出ないが、とりあえず言えることは、日本列島という島は、災害と付き合って生きていく島である。その歴史がこの国の文化とも言える。どう自然災害とうまく付き合っていくか、20年に一度噴火する三宅島にはそのヒントがあるように思う。

 

午後は三宅島大学本校舎で網を編んだ。

 

夕方、急遽、青空が出た。少し救われた気がした。

 

そうそう、島の人は皆、海と空と山に意識を向けて生活している。

 

人工物で守られ、自然界から切り離された都市で暮らし、鈍り切ってしまった、生物として、この星と島に生きる感度と感性を磨き直さなければならない。