海が減った

沙弥島滞在12日目。午前中は滞在先である坂出市海の家で事務作業や作品設置プランの検討、ワークショップの準備などをして、午後13時から与島にてワークショップを行った。

 

午前中嬉しいことがあった。10時頃だっただろうか、今日はワークショップ開催日でもないのに沙弥島の人が網を編みに来てくれたのだ。しかも3人。山本さんと溝渕さんが2人。溝渕さんは遠い親戚とのこと。3人とも漁師さんである。「少しでも進んだ方がいいと思って」そう言って広い畳の部屋で午前中編んでくれた。

 

編みながら少しだけ話を聞かせてもらった。いろいろ話を聞いたが、一番印象に残っているのは魚の減少と瀬戸大橋と保証金の話である。自分からの最初の質問はこうだ。

 

五十嵐「瀬戸大橋ができて、というか番の州(埋め立て)で陸続きになって変わったことはありますか?」

溝渕さん「そうだなぁ。物騒になったな。知らん人も来るようになったし」「昔はのどかで良かった。今日みたいな風の強い日は港で焚火したりしてな。今はもうできんやろ」

五十嵐「良かったことは?」

溝渕さん「病院にすぐに行けるようになった。昔は船も遅かったし、病院行くのに1時間かかった。だから多少痛くても我慢しとった。今は10分やそこらで行けるからな。」「あと仕事が増えたな。母ちゃん達も市内のパートとかできるようになったし、それに市内勤めの人は社員寮じゃなくて自宅から仕事に行けるようになった」

山本さん「あと魚が減ったな。自分らが若い頃は今の倍は獲れたで」「埋められて、海が減ったしな。瀬砂って分かるか?」

五十嵐「瀬砂?」

山本さん「海にある粒の小さな砂のことや。ほらそこのナカンダ浜みたいな」「あれがコンクリートつくるのに良いから。ぎょうさんとったんや。それで埋め立てたり、橋つくったり、瀬戸大橋にもおそらく使われとるで」「その瀬砂はキビナゴとかイリコのこまい(小さい)のとか、小さな魚が育つ場所なんや。それでそれを食べにタイやメバルが来る。その瀬砂が少なくなってしまったから。魚は獲れんくなった」

溝渕さん「でも、あの時、随分保証金もらってな。100万円くらい。今の2000〜3000万円くらいや。それでみんな家建てたり、船のエンジンまだ使えたのに500〜600万するのに付け替えたりしてな。そんな漁師いっぱいおったわ」

山本さん「でも、何年か前に知事が、魚減るし砂とったらいかん、言うて、とらんくなったらしい」

 

海の上に架かったコンクリートの瀬戸大橋が、海の中の魚の育つ砂が吸い上げられて固められてつくられていたとは知らなかった。橋の全てのコンクリートではないだろうが、そんなイメージが浮かんだ。何かを得れば何かを失うのである。物流や移動の早さを手に入れ、物質的に豊かになったが、漁獲高と海の豊かさと漁師の誇りを失ったのである。とはいえ、当時断ったり反対したりできる状況になかったであろうことは容易に想像できる。そっちの方向にこの国の国民が未来を感じていたし、それを達成したのだ。

 

常に問題は見えないところで起きている。海中に隠し、沖に流し、全てを見えなくしてしまう海はきっと常に陸のわがままを引き受けてきた。海の文化、海辺の文化は常に陸の価値観、権力構造の犠牲になってきた。だが、そこには陸にはない自由さや、陸とは違った豊かさがあるに違いない。

 

お昼になると「昼飯食べてからまた来るわ」と言ってくれ、自分達は与島へ向かった。

 

与島でのワークショップには主におばあちゃん達が参加してくれ、ほぼ全員が網を編むのは初めての方ばかりであった。静かに穏やかな時間が流れた。

 

今回まわっている5つの島の中では一番大きな島だが、人口は最も少ない。若者はほとんどいない。島の漁師さんは3人だけである。その内の若手の1人、尾崎さんが参加してくれた。尾崎さんは5年前まで石の仕事をしていたが、石が採れなくなって、漁師に仕事を変えた。

 

いきなり漁師になれるのか疑問に思い話を聞くと、先日行った岩黒島の中村兄弟の長男の船で一ヶ月ほど修行し、その後自分で漁をするようになったとのこと。別の島で会った人どうしが、少しずつ繋がってきた。これも網を編んで島をめぐる1つの成果だろう。「今度また岩黒島で編むので中村さんに、与島で尾崎さんも一緒に編んでくれた」と伝えますねと約束した。

 

与島は石で有名な島である。ワークショップに参加してくれた昔採掘業をされていたおじいさんに話を聞いた。与島石といって、古くは大阪城築城にも使われたそうだ。なので、与島は石の採掘業をしていた人がたくさんいたそうだ。だがしかし、島の大きさも限られているし、当然掘れる石の量も限界がある。昔は手で掘っていたから少しずつしか掘れなかったが、機械化が進み掘るスピードが上がったので、加速度的に島の岩山は掘り進められ、もう掘れるところが無くなってしまった。そして石を掘る人は仕事がなくなり、島の人口は減っていった。

 

これが、瀬戸大橋が架かるタイミングと重なる。当時、これから先、石があまり掘れなくなることを知っていた人達にとっては、仕事を失う直前に瀬戸大橋が架かることで発生する保証金は、とてもありがたいものであったとのこと。そのお金を持って、皆、島を出たのである。もちろん島に残った人もいる。5年前に漁師になった元採掘業の尾崎さんは先祖代々与島ということなので、石が無くなっても、橋がかかっても島に生きる方の1人である。尾崎さんは「街の暮らしが合わないから」と言っていた。

 

瀬戸大橋ができたのが良かったとか悪かったとか、埋め立てて良かったとか悪かったとか、そういった単純な話ではない。そう感じた。そこに生きている人がいる。そこで繋いできた文化がある。岩山を掘り続ければ石はなくなるし、仕事もなくなる。瀬砂を採り続ければ魚はいなくなり、仕事はなくなる。

 

これまでの自分と、今の自分の生活を支えているものは何なのか考える。どこかで誰かが支えてくれているのである。どこかの何かが支えてくれているのである。

 

“美しい瀬戸内海の島々”この言葉のむこう側にあるものを、しっかりと見つめる必要がある。瀬戸内国際芸術祭の個々の作品はその扉を開ける役割を担っているのだろう。扉を開けたその先に“海の復権”がある。

 

番の州の埋め立て地ができて沙弥島が陸続きになったのは昭和46年(1967年)、今から46年前。瀬戸大橋が架かったのは昭和63年(1988年)、今から25年前。沙弥島・瀬居島は埋め立てで陸続きになった島。与島・岩黒島・櫃石島は橋で陸とつながった島。

 

塩飽諸島のこの5つの島は、橋と埋め立てとは切っても切れない関係にある。まずはそこに生きる人とその物語を“そらあみ”を通じて編みつないでみようと思う。そこから見えるものが必ずある。

 

「海が減った」この言葉が強く印象に残っている。「陸が増えた」とは言わず。「海が減った」というのである。

沙弥島の漁師さん達。溝渕さん2人と山本さん

カーナビで与島に向かったが、道があるのにないことになっている。橋からは島民しか入れないようになっているからである。

今日は風がハンパなく強かった。ハンドルが風にとられます。

橋の下は航路になっており、まるで競争するかのように、船がガンガン行き交っています

初めて編むのにみなさん上手でした。

与島ではこんな風に呼ばれています

かつての“石の島”与島の写真。右上は転覆ではなく、こうして豪快に石を海の中へ配置していたそうです。今ではあり得ない船の使い方に衝撃を受けました。