くすかきをはじめたきっかけ、7年前に見上げたもの

くすかきは明日からはじまるのだが、生活リズムを合わせるために、太宰府入りしてからは例年同様に、8:30から御本殿で行われる朝拝に行くようにしている。朝拝で神主さん達が唱える“大祓詞”も、自分にとっては一年ぶりだったが、自然と口が動いて覚えていたので驚いた。積み重ねとはすごいものである。

 

朝拝を終え、準備作業のためにレジデンスである山かげ亭に戻ろうと思ったのだが、樟の葉っぱが落ちてきているのを見て、このまま帰るのもおかしいし、くすかきすることにした。松葉ほうきを持って樟の葉を掻く、一年ぶりの動きに少し新鮮さを感じた。普段使わない筋肉を使うようである。

 

くすかきをはじめるきっかけについて書こうと思う。遡ること7年前の2006年、自分は生まれて初めて太宰府天満宮の地を踏んだ。九州国立博物館が開館するにあたって、“地域に開かれた博物館にしよう”というコンセプトのもと、「アジア代表日本」というタイトルの、ダンボールで船をつくる市民参加型のアートプロジェクトが実施された。その時の現地スタッフとして自分に声がかかり、太宰府に来ることになった。

 

ちょうどその時も春の今頃で、樟の落葉の時期であったので、自分も朝にお宮の落葉掃除に参加させてもらっていたときのことである。樟の落ち葉を集めようと、松葉ほうきを動かし、振り返ると、ついさっき松葉ほうきで描いた縞模様の上に、次なる1枚の葉っぱが落ちており、見上げると、空を覆うような大きな樟の木の森から、更なる1枚が落ちて来ようとしていた。その光景に衝撃を受けた。その時、この樟の葉を掻く行為は「掃除をしているのではなく、落葉が落ちてくる場所をつくっているのだ」と思ったのが、くすかきについて考えはじめるきっかけである。

 

では何故、衝撃を受けたのだろうか?そのことについては、今まであまり深く考えたことはなかった。実はそこには、最近自分のテーマとしている“海からの視座”が大きく関わっていることに今年の1月に舞鶴で行われた「種は船⇔船は種-ドキュメント展in舞鶴-(3年間に及ぶ造船と航海の軌跡をたどる)」での山田創平さん(都市社会学者)とのトークで気づかされることになった。

 

創平さんは、海人(あま:かつて日本の海辺に生きた人たち)と、その人たちの日本人のルーツとも言える信仰について、黒潮の流れに沿って移動してきたことをベースに話をされていた。その内容は自分がここ10年近く、人との縁と、自らの感性で移動してきた島や土地の話ばかりで、まるで自分のことについて語ってくれているようで、かなり驚いた。

 

そして、その話の中に、なんと太宰府天満宮も出てきたのである。太宰府天満宮は天神信仰のお宮である。天神様とは菅原道真公を指す。なので天神信仰とは菅原道真公に対する信仰だと自分も思っていた。ところが、道真公が亡くなる以前から、人々の間には天(空)に対する信仰があったのだ。それは夜の星や、昼の太陽を目印として航海した海人(日本人の1つのルーツ)の天(空)に対する信仰である。

 

数日前、宮司さんにご挨拶に伺った際、少しだけ話をする時間がいただけたので、そのことについて聞いてみた。宮司さんは、雷や雨といった天(空)という自然への畏怖の念であり寄せる想いが、道真公と結びつき、今の天神信仰となったとおっしゃっていた。なので、これはどうやら間違ってはいないようである。

 

“天神信仰”その字のごとく、天(空)の神さまへの信仰というわけである。

 

ではなぜそれが、7年前の自分が出会った樟の木の落葉と結びつくのか。

 

実は太宰府天満宮に来る前に、自分は4ヶ月間に及ぶ、日本からミクロネシアまでのヨットでの航海をしていたのである。長い時間、海の上にいると空を眺めるしかない。GPSが発達した現在も、最終的には日中は太陽を目印に、そして夜は星を目印に航海をする。

 

東京にもどった時、ビルが高くて空が狭く、自分のいる場所が分からず、不安になって、太陽と星を必死で探す自分がいた。やがて陸に慣れ失われていくのだが、この時の感覚こそが“海からの視座”であり、海人的視点である。

 

その感覚が完全に消える前に、自分は太宰府天満宮で樟の杜の落葉と出会うことになる。樟の杜で見上げたそれは、まるで、空や星が落ちて来ているように感じたのだ。海の感覚があったからこそ、樟の杜の落葉にあんなにも強い衝撃を受け、これは何か伝えなければならないと、作家の勘が働き、使命感を持ったのである。

 

そして、天満宮が天神信仰のお宮であったのも、1つの縁なのだろう。

 

くすかきとは、天(空)を信仰する土地で、天(空)から降りてくる樟の葉を通して、海からの視座(天を想う気持ち)について伝える。それは“樟を見上げ、そのむこうにある天(空)と向き合う場をつくる”ということである。

落葉の瞬間

樟の葉越しに空を想う