山誉種蒔漁猟祭(やまほめたねまきかりすなどりのまつり)

太宰府滞在25日目。くすかき11日目。晴天。日中は夏のように温かくなった。

 

6時半からの早朝くすかき。先日の大風で落ちかけていた葉っぱが全て落ちてしまったようで、落葉はほとんどなかった。また温かくなって次なる若葉が動き始めるのを待つしかない。8時半からの朝のくすかきをプロジェクトスタッフに任せて、以前から気になっていた「山ほめ神事」が行われる、志賀島(しかのしま)にある志賀海神社(しかうみじんじゃ)へ「山ほめ祭」こと、山誉種蒔漁猟祭(やまほめたねまきかりすなどりのまつり)の見学に行ってきた。

 

きっかけは、太宰府天満宮の宮司さんが現在宮司不在の志賀海神社の宮司も兼任していて、天満宮に志賀海神社の関係者の方が修行にきており、その方からお声がけいただいた。海の神様を祀るお宮が山を誉めるお祭りをするというのだ。山から川を通って栄養分が海に運ばれるため「海は山の恋人」といって植樹をするような話は最近良く耳にするが、それよりもずっとずっと前から志賀島の人は海に生きるために山を誉めて続けてきたのだ。

 

志賀三山(勝山・衣笠山・御笠山)の深い緑に囲まれ、博多湾の入口に位置し、北に玄界灘が広がる志賀海神社は「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、海上交通の安全や豊漁を願う人々の信仰を集めてきた。御祭神は伊耶那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらえ)によって生まれた底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)の綿津見三神(海の底が長男、中層が次男、表層が三男ということだそうだ)であり、その神裔とされる阿曇(あずみ)氏が代々奉斎し、島の氏子たちと共に古式ゆかしい神事を守り伝えてきた。

 

阿曇族(安曇族とも)は、日本神話では綿津見神の子孫で航海を得意とする海人(あま)の氏族とされ、BC5世紀頃に中国の長江(揚子江)下流にある江南地方から渡ってきた渡来系海人族で、志賀島を一大拠点とし、国内・大陸との交易を広く行い、経済的・文化的に高い氏族であった(国宝である「漢委奴国王」の金印がこの島で発見されたのも分かる気がする)。その交易の足跡が対馬、兵庫、長野県安曇野市穂高、石川県志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島など「しか」「あつみ」と称した地名に多く見られる。

 

「山ほめ神事」は、まず宮司によってもみ種が蒔かれ、次に古老(社人)たちが本殿うしろの勝山・北側の衣笠山・西側の御笠山を祓い清め、「あゝらよい山 繁った山」と誉め称え、次に七日七夜の御祭で酔っていても「志賀三社志賀大明神のみちからをもって一匹たりとも逃しはせぬ」と弓を引き、ろを漕いで「よせて釣る」「いくせで釣る」と鯛を釣りに行く様子が表現されている。

 

古来より伝承されてきた「山ほめ祭」は、ほんとうに素朴である。櫓を漕いで船の航行を表現したり、鯛を表現するのに正座をしてお尻で藁の束をシャカシャカと振ってみたり、島の人の劇を見ているようで、なんとも暖かな雰囲気である。

 

お祭りを終えた宮司さんと話をした。神饌(神様にお供えする飲食物)は島で採れたものを使っており、神事も島の人が中心となってやっている。形式だけが残っている神事とは違った良さがある。これが本来の神事のあり方、原型なのだろうね。良かったよね。これをちゃんと伝えていきたいんだよねと話をされていた。

 

山ほめ神事の起源は明らかではないが、神功皇后の三韓出兵した時、皇后の御前にて志賀の海人たちがこの古くより伝わる山ほめ神事をお見せしたところ、実に面白い儀式であるとして皇后はこの神事を「志賀の浜に打ち寄せる波が途絶えるまで伝えよ」と厚く庇護され、今に伝えられているというので短くても1200年ほどの歴史がある。

 

海に生きるために山を誉め、暮らしと共にある神様や自然と向き合うことを無理のない形で伝えていっている姿は、樟の葉を掻き、境内の縞模様と葉の香りから海を感じ、暮らしと共にあることを目指す、今年5年目で1000年を目指す「くすかき」として、学ぶべきことの多いお祭りであった。

 

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落ち葉を求めて本殿裏へ移動。

 

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お社は太宰府にある竈門神社を作った方と同じ方だそうです。屋根の形がそっくりです。

 

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海が見えるお宮です。

 

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太宰府天満宮の空にはいないトンビが数羽、大きな弧を描いて優雅に飛び続けていました。

 

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宮司さんが、育民橋の上で四方に種を蒔きます。

 

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奥では船を動かす道具である櫓(ろ)を漕いでいます。手前では藁の束を振って鯛を表現しています。