手間がなくなることは楽しみを失うこと

太宰府滞在20日目。くすかき6日目。晴天。落葉真っ盛り。早朝のくすかきを終えて、天神まで移動し西日本リビング新聞社の朝礼にて「くすかき」のプレゼン。いくつか用事を済ませて太宰府にもどって夕方のくすかきを行うといった1日だった。

 

西日本リビング新聞社でプレゼンをするきっかけは、8年前からお付き合いのある同社の社長さんから「うちの社員の良い刺激になると良いし、くすかきを知ってもらうのも良いことだし、こんど朝礼でプレゼンしに来ん?」というお誘いをいただいており、それが今日実現したというわけだ。

 

早朝のくすかきを終えて、朝食を食べ、電車に乗って天神に移動し9時半からの朝礼で話をするという流れは、まさに早朝からくすかきに参加してくださっている勤め人の方々の朝の動きと同じ体験をすることとなった。

 

なかなか乗る機会のない通勤電車に揺られながら辺りを見回すと、携帯をいじっているひと、本や新聞を読む人、化粧をしている人などがいたが、特に寝ている人が多かったのが印象的であった。この中に何人の方が朝に樟の葉を掻いただろう?いやいや、そんな人は自分くらいだろう、、、などと考えていた。

 

太宰府からオフィス街である天神まで電車で約30分。距離で言ったらその程度なのに、全く違う朝の時間が流れている。近代化された都市では季節の変化は感じづらい。それでも駅近くを歩いていると、赤い落ち葉を見つけた。樟の葉だった。辺りを見回すと街路樹にまだ若い樟の木があった。誰も気にする様子もなかったが、少し嬉しくなった。

 

全国各地、いろんなところに行くが、以外と樟の木に出会う機会がある。どうやら樟の木はよく街路樹として植えられたようである。しかし、最近はハナミズキなどにどんどん変わってきている。その理由は、樟は落葉が多く手間がかかるからで、手間のかからない街路樹が好まれるからである。

 

手間がかからないのは確かにけっこうなことだが、手間をかけるからこそ楽しめるとも言える。そもそも本当に楽しめるものというのは、手間がかかるものだとも思う。時間で会ったり、モノであったり、コトであったり、それ自体と向き合うから楽しめるのである。

 

そう考えると、楽しむ時間を増やすために合理化を進めすぎると、結果として楽しむ対象が無くなってしまうということになる。それはもう本末転倒である。

 

このようなケースというのは、街路樹以外にも生活の中にたくさんある気がする。例えば、便利な故にすぐに反応しなければならないメールやラインという類いのものは、結果として手紙やFAXの時代よりも忙しく拘束されるようになり、自由な時間が増えるはずが、むしろ不自由になっている。

 

いったい何なのだろうか?この自由を求めた結果の加速度的な合理化社会は、、、。

 

1歳の人の1年は、1分の1。5歳の人の1年は、5分の1。30歳の人の1年は、30分の1。90歳の人の1年は、90分の1。というように、人生は後半に向けて加速度的に、雪だるまが大きくなるように時間が早く感じるようになる。

 

地球や社会を人に見立てるならば、加速度的に時間が早まる傾向にあるここ数年を見る限り、それはまるで終わりに向かっていっきに雪だるまが転がっているようである。

 

人がつないできた近代から現代にかけての社会という「命」が終わりを迎えようとしているように感じる。

 

木や鳥や虫、まわりを見渡しても急いでいる生き物は、どうやらヒトだけのようである。1人(一種)で勝手に急いで、1人(一種)で勝手に息を切らせて、苦しんでいるのである。つくづく変わった生き物である。

 

くすかき参加者のお父さんが言っていた言葉が頭に残っている。「松葉ほうきで、樟の木の下で葉っぱを掻いていると、こっちが正しい時間なんだなって思うんですよ。自分は本来こっちの時間の中に生きているんだなって、会社とかでの時間感覚おかしいですもん」

 

時間というものは変わらない。感じ方次第であり、それは、過ごし方次第である。

 

もう半袖短パンです。すてきです。

 

広い天神広場もみんなで掻けばあっと言う間です。

 

親子ではありませんが息はバッチリ合ってます。

 

自分なりに彩りを。

 

ありがたい歓迎モードです。

 

朝きれいになくなるまで掻いても、夕方はこの状態にもどってます。

 

同級生のチームワーク発揮です。