ブラジルが抱えるアンフェア

ブラジル2日目。朝5時半、お腹が空いて目が覚める。窓から光が差している。昨日の夜にホテルに到着してそのまま寝てしまったので町を見ていない。ドキドキしながら窓を開けた。朝の美しい光の中、白く新しいビルと古く背の低い密集したレンガやコンクリートが混ざった建物の間から大きな木の緑がモコモコとあちこちで顔を出している。なんだか人が永くこれまでも、そして今もエネルギーを発して暮らしているのを感じるような風景であった。

 

しばらく観察していると、歩く人が1人また1人と増え、やがて車が通り、町が動き始めた。遠くに目をやると水平線を見つけた。大西洋だ。よし。まずは海まで行ってみよう。と、その前に何か食べたい。7時頃ホテルのロビーへと降りると朝食サービスがやっていた。ナイス!とりあえず食おう!どうやらバイキングスタイルのようだ。

 

勝手に食べようとするとカウンターの料理長らしきおじさんに呼ばれ、ルームナンバーとサインを求められたので促されるまま記入。おじさんはうなずいて、どうぞと手を広げた。3人ほど腰掛けられるイスとテーブルのセットが10組ほどあり、ぼちぼち埋まっている。みんなブラジル人。

 

角に座っていた90歳くらいのおじいさんから、突然「おはようございます」と言われびっくりしながら「おはようございます」と返す。どうやらすぐに日本人と分かるようだ。ブラジルの朝の挨拶は「ボン・ジーア」。当たり前だが皆さん上手にボンジーアと言うものである。とりあえず分かる言葉の真似からはじめよう。それっぽくボン・ジーアと言ってみるが、まだどこか納まりが悪い。まあ最初は仕方がない。ボン・ジーアもいずれ板に着くだろう。

 

真っ黒な肉や、芋と大根の中間のようなものなど、見たことのない食べ物がたくさんあるが、味が分からないので端から少しずつ盛って全部食べてみた。腹が減っているせいか、どれも美味しい。飲み物も少しずつ全部飲んでみた。やたら甘い白い液体はちょっと厳しい。なんだか分からないが赤くて酸っぱいフルーツジュースが気に入った。あとコーヒーは旨い。さすがコーヒー豆の国である。

 

お腹もいっぱいになったので、海を目指してレシフェの町に出た。レシフェは南アメリカ大陸の東に突き出た海に面した都市。ペルナンブコ州の州都であるレシフェは人口160万人。近代工業が盛んな都市である一方、近くの海岸は、白い砂浜とヤシの並木が美しいビーチリゾートとしても有名だそうだ。白い帆を張ったジャンガダという帆掛け船が蒼い海に浮かぶのが見え、1年中海水浴が楽しめるとのこと。また、自分が滞在しているレシフェ旧市街は、植民地時代から北東部で生産される砂糖や綿花の貿易港として発展した町で。17世紀半ばに一時オランダの占領下におかれ、今もその時代の砦や建築物が多く残っている。運河と橋が多い街並は“ブラジルのベニス”とも呼ばれているとか。しかし、一方路上生活者も多く、ワールドカップ情報を放送する日本のマスコミにも騒がれているが、スリや強盗から、殺人まであり、治安は決して良くはない。大学の先輩でレシフェの建築事務所で働いている方からの情報では、ブラジル人漁師と「そらあみ」がしたいと言っているアーティストがいると、領事館の友人に話をしてくれたところ、「ここ数年の間に日本人のご遺体を2〜3体日本にお送りしているので、これ以上仕事を増やさないでほしい」と言われたとのこと。自分もその方の仕事を増やさないようにしたい。

 

とりあえず、1〜2㎞ほど歩いて「Marco Zero」と言うレシフェ発祥の地である海まで出たが、防波堤があり遠くを眺めることは叶わなかった。日差しは強く湿気もあり完全に日本の夏である。いや日本の夏より日差しが強い気がする。町は、古い教会やコロニアル様式の建物に点々と出会え、途中はなぜかサングラス屋さんが多い。あとはスポーツ用品店も目立つ。そしてワールドカップにむけてブラジルカラーの風船などで店を賑やかしはじめていた。日本人はまだほとんどいない。レシフェ在住日本人は120家族くらいいるらしいが、ほとんど現地住民化しており、外から来ている日本人はかなり少ない状況なのだそうだ。歩いていると外国人の姿はなく、まだレシフェの日常がある感じがする。

 

自分がワールドカップ開幕の2週間前に入ったのは、お祭り騒ぎになる前のブラジルが知りたかったからである。そして、午後に「Museu de Arte Moderna Aloisio Magalhaes-MAMAM(アロイジオ・マガリャインス現代美術館)」に行き、見えていないブラジルを知ることになる。

 

展覧会のタイトルは「entretanto」。意味は「けれども」とか「しかしながら」といった意味である。国内外の25人の作家がブラジルの社会問題に対して、作品を発表していた。午前中レシフェの町で自分も見かけた馬の荷馬車を使って1日だけレシフェの大通りを使って50台以上の荷馬車レースを行った記録写真をベースとした作品に惹かれた。経済発展と共に物流のスタイルが変わり荷馬車の仕事がなくなって職を失う人が続出してきているから、車が通れないように町ごとコースにしてレースをしてしまったのだ。リオデジャネイロ在住の作家がレシフェに滞在して準備をし、先月の5月に実際にレースをした。

 

他の作品は文脈が分からないと理解しづらいものが多く、作品の前で1人で困っていると、「no idea?」 と聞かれたので、2度ほどうなづくと、受付の女性が1つ1つの作品を英語で紹介してくれた。後で聞いたのだが彼女は美術館の広報や見に来た人への作品説明をしているのだそうだ。彼女の説明と共に作品から見えてきたのは、ブラジルの抱える差別と経済格差の問題であった。

 

白人警察に殺されコンクリート土管の上に仰向けにされたいくつもの黒人の遺体の白黒写真。少し前の年代の写真だった。当時、みんな分かっているのに、怖いから見てみぬふりで、3日間以上そのまま放置されていた時の写真だそうだ。

 

他にも、インディアンが開発のため土地を奪われ、死して大地に返る彼らの思想が反映させることができなくなったことに対して、作家が広大なブラジル各地のインディアンの生きた土地数十カ所へと足を運び、土地を掘り、そこから大きな石を持ってきて、その象徴として並べた作品や、実際に白骨化した路上生活者の骨を集めて荷車で運ぶパフォーマンス映像作品など、社会と差別と格差によって生まれる歪みや死が作品を通してそこにあった。

 

案内してくれた女性が言っていた1つの言葉が今も頭に響いている。

 

「unfair(アンフェア)」。

 

不公平という意味だ。

 

彼女の話ではブラジル社会というものは不公平な社会で、黒人、ゲイ、インディアンなどといった人達の社会的・政治的立場は低いし、その格差から逃れる術などないのだという。支配しているのはWhiteを中心とした一部の人だと。

 

これは人の欲と共に世界を飲み込んで広がる資本主義の基本構造である。世界中一緒だ。支配者と被支配者。お前のところもそうするべきだという国と、それはいやだという国が今もモメている。

 

日本だってそうである。日本のたちが悪いのは肌の色が一緒だからなんとなく薄ぼんやりとやりすごされていることと、たまのガス抜きと、本質からずれた教育でものごと考えないようにさせられていることにある。またブラジルで日々起こっているような事実に日常で出会わない演出をされている。まあ一言で言えば気が付かないようにしてあって、実際、その方が楽だから気が付かないように我々もしているということだ。

 

「あなたはどこから来たのか?」と聞かれ、日本と答えた。ワールドカップか?と聞かれ、「そうだ」と答え、「でもそうでないブラジルが知りたくて早めに来た」と言った。彼女は「見てほしい」と言っていた。展覧会の会期は7月までやっている。世界中からレシフェに来る外国人はこの展覧会をみることでマスメディアでは届かない、もう一方のブラジルが見えてくるに違いない。

 

あの熱狂と歓喜のイメージ、明るく笑顔のイメージのブラジルは、それと同じくらいの闇と死と、暗い悲しみから生まれているのである。目に見えているもののむこう側を見なければならない。この世の全ては光と影によってはじめて存在という像を結ぶのである。

 

果たして平和ボケした日本という国の美術が、このような国と戦うことができるのか正直不安になる。国内だけであーだ・こーだと言っている場合ではない。アートプロジェクトが現場主義なら、世界の現場に行かなくては。でも通じないとは思わないからここに来ているのである。と自分に言い聞かせる。

 

 

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密集する家々

 

 

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朝の光を浴びるレシフェの町

 

 

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赤くてすっぱいジュース

 

 

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点々とこんな教会があります。

 

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建物の影には人がよく座って話をしています。

 

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Marco Zeroから、大西洋を背に

 

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ビルの間の川で貝の漁をしていました。1人が潜って泥ごと貝をとってきてカゴに入れ、もう1人が舟の縁に座ってカゴを右左に交互に踏んで泥こししていました。

 

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レースのゴールシーン。

 

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実際に配付したフライヤーも展示してありました。

 

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奴隷制度を想起させる