New horizon ~なつかしい未来にダイブする~

La Mano 4日目。朝9時La Mano到着。2週間ぶりのLa Mano。少し間があいたが、みんな自分のことを覚えてくれていたようで、「あ!やすあきさん。おはよう」と声がけしてもらえたり、目を合わせて無言でお互いに頷いたり、朝の会の間、横に寄り添って手を握ってくれていたり、なんとなく自分の居場所がまだここに残っているように感じられた。

 

今日は、前回の三日間の滞在の“つづき”をしに来た。“つづき”というのは、藍染めの全行程を体験するつづきのこと。「染め」に関してはいちおう一通り体験したのだが、「染め液づくり」がまだ途中だった。前回の最後は「すくも練り」をした。これは、カチカチに乾燥した藍の葉の塊に、熱湯を注ぎ、和菓子の餡のように柔らかくなるまで練る作業。そして、今回はその練った“すくも”に灰汁(アルカリ性の水)を加え、薄めてのばして、かさ上げし、還元剤を入れて「藍建て(あいだて)」をする。

 

「藍建て」とは、水に溶けない藍の色素を、還元して水に溶かすことで、発酵によるものと、還元剤によるものがある。そもそも藍の染め液には酸素がない。つまり、無酸素状態をつくり出すことが大事なのである。古来の藍染めは、発酵という手段で酸素を取って染め液を作ってきたのだけれど、発酵をコントロールするのに熟練を要するため、現在は還元剤を入れて無酸素状態の溶液をつくる。ちなみに酸素を取ることを「還元作用」という。

 

簡単にまとめると、「染め液づくり」の後半戦をしたということ。

 

実作業としては、灰汁や還元剤の加える分量が分からない自分は、ひたすら攪拌(かくはん)、要は混ぜる担当。使い古した湯船の中に入った染め液をオールで漕ぎ続けた。湯船の中の藍は、攪拌を続けるうちに、徐々に茶色から濃い藍色へと変化していった。正確には空気に触れている染め液の表面のみが、濃い藍色になっていく。攪拌によって所々泡立っている、、、。その表面は藍色というよりも、漆黒に見える。漆黒の表面で泡が弾け、所々白い粒が点在する。それはまるで宇宙が生まれる瞬間のような風景であった。午前中はこうして、町田の森の中で、湯船にオールをさし、宇宙を漕ぎ続けた。

 

午後は、もう一つ興味があった作業の「糸巻き」をした。「糸巻き」は染めた糸の綛(かせ:一定の長さの糸をゆるく巻いた塊)を、玉巻器を使って毛糸玉にしていく作業。これは「織り」の棟(染めと織りは別棟)の入り口の机で、いつも宇佐美くんがする作業。La Manoでは、糸巻きは宇佐美くんの仕事ということで皆が認識している。体の大きな宇佐美くんが織り棟の入り口で糸を巻く姿は貫禄があり、すてきだ。できれば、すぐ横でやらせてもらえないか?と施設長の高野さんに相談してみたが、宇佐美くんは糸巻きにこだわりがあり、仕上がった糸玉の大きさはもちろん、硬さや、糸の締り具合まで細かく決め事があり、そんな宇佐美くんの横で、別の人が糸巻きをはじめたら、自分の仕事が良くなかったのではないか?と悩んでしまうタイプの人だから、宇佐美くんが別の仕事で糸巻きの持ち場を離れた時に入れ替わりで入るようにしましょう。とのことだった。このあたりの、一人一人の得意不得意や性格まで把握して仕事を割り振っているあたりは施設長の高野さんをはじめスタッフの方々の“丁寧にひとりの人間と向き合う姿勢”にあらためて、はっとさせられる。でも、本来、人は丁寧にひとりの人間と向き合うべきで、現代社会の荒んだ人間関係などを想像すると、こっちが本来のあるべき姿だよな。と思わせられる。

 

「糸巻き」という作業に興味があったのは、このLa Manoという工房で、それぞれの場所で行われている「染め」や「織り」といった仕事であり、一人一人の存在をつなぐ作業に思えたからだ。ここでは様々な性格や身体性といった特徴をもった人が作業をしているから、染めが得意な人は染め、織りが得意な人は織り、といった具合で得意なことをする分業体制が説妙なバランス感覚で成立している。それら一人一人の手元から手元へ、心から心へ、緩やかに一本の糸が繋がって、連動しているようなイメージがあった。この“緩やかなつながりの連動”が、この場を機能させ、クラフト工房La Manoを成立させている象徴のように思え、糸巻き作業の存在に興味があった。

 

「糸巻き」のやり方を教わり、巻いてみた。玉巻器の性能が良いので上手にできた。そう思って、宇佐美くんの巻いた糸玉を握ってみると、自分の糸玉はゆるくフワフワで、宇佐美くんの糸玉はしっかりと固まっていた。見た目は分からないが、触ればすぐに分かる。しっかりと巻かれた糸玉は、織り作業で最後まで使いやすいそうだ。フワフワの糸玉をもう一度全て巻き直すことにした。こういった部分のこだわりが良いものを作る工房において、とっても大切に思えたからだ。そう。ここLa Manoは、障害者施設ではなく、クラフト工房なのだ。その染織品のクオリティは非常に高い。それぞれがそれぞれにこだわりを持って、できることをして、品物として良いものをつくる。まさに工房である。

 

染織や陶芸といった手作業であり、伝統工芸といった世界の作業工程には、植物を育てたり、土を掘るところからはじまり、品物にして、売るところまで、深くて広い関わりしろがある。それは、藍染めのグラデーションのように自分なりの色が出せる、自分の居場所が見出せる場とも言える。社会にはいろんな人がいるからいいのだ。得意なこと、不得意なことがそれぞれにあるからいいのだ。だから関わって、それぞれの得意が活き、それぞれの不得意をフォローすることができる。それぞれが持って生まれた凸凹を、凸凹のままにお互いの存在があるから尊重しあえるのだ。

 

きちっとラジオ体操ができるような、五体満足で、且つ、まわりの空気がよめるような、社会に求められる規格内の人材ばかりが必要とされる現代社会。でも、そもそも人はそんなものではない。というか、生まれながらにそんな人は存在しない。皆、そもそも凸凹なのだ。我慢してその規格に収まっているかのような振る舞いができるだけなのだ。もしくはそのように教育という名の洗脳をされているかのようにも思える。

 

La Manoの朝は、掃除とラジオ体操からはじまる。みんなずいぶん凸凹で、不格好な動きをする。中には動きすらない人もいる。でも、これでいいのだ。自分はここがとっても安心できる。

森に囲まれ、植物を育て、手作業をして、美しい染織品が生まれる。凸は凸のまま、凹は凹のまま、そこにやるべきことがある。名前と役割が見出され居場所ができ、質を求められこだわりが生まれ、できあがった品物を大切にされ、やりがいができる。これは当たり前のことだ。

 

しかし、現代社会はどうだろうか?凸凹を無理して隠し、自分の人生の時間を売ってお金を稼ぐだけで、いいのだろうか?それは幸せというのだろうか?

 

人は必ず生まれて死ぬ。我々は社会を運営し発展するためだけに生きているのだろうか?

 

今の世界や価値観を捨て、新しい世界に飛び込むには勇気がいる。自分もLa Manoに来た初日は緊張したし、初めての現場は少し怖かった。だれだってなんだって最初は怖い。

 

でも勇気をもって飛び込むと、発見があり、自分の中にもともとあった見えていなかったものが見えてくる。

 

ここLa Manoには現代社会において、人が豊かに生きていく新たな場としての可能性があった。

 

帰り道。言葉が浮かんでいた。

 

「New horizon ~なつかしい未来にダイブする~」

 

この世界に、新たな地平(水平線)を織り成すのだ。

 

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竹林のむこうの建物がLa Mano。

 

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灰汁を足していきます。

 

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攪拌(かくはん)します。

 

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町田の森の中で、湯船にオールをさし、宇宙を漕ぎ続けた。

 

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だいぶ藍が建ってきました。

 

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干し柿の横に藍染めされた手ぬぐいが干されている。

 

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純白の糸。

 

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色のグラデーション。糸の種類。藍の糸だけでも様々なものがある。

 

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藍染めされた綿糸と同じ爪の色。

 

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織り機と糸。

 

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織り成された水平線。

 

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縦糸と横糸で面ができていく。

 

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糸を巻く宇佐美くん。

 

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La Manoをつないでいる象徴のように思えた。

 

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今日、藍建てした色を確認。良い藍が建ちました。