プシュカに糸を巻きながら考えたこと/Centro Cultural de Bellas Artes展示設営5日目

Centro Cultural de Bellas Artes展示設営5日目。今日からプシュカの仮設置がはじまった。

 

設営現場の通訳兼アシスタントとして入ってもらっているアンデス染織専門家の有紀さんから興味深い話を聞いた。

 

アンデス染織と一言でいっても、その時代には幅がある。長い時間軸でアンデス染織を発掘し研究してきた有紀さんの目からすると、約500年前のインカ時代の織物は大量生産されたこともあり、均一でツルッとしていて、今でいうユニクロのような感じなのだそうだ。逆に約2000年前のパラカス時代の織物は動物っぽいというか、蛇がうねって波打つような野生性があり、より生命力を感じるとのことだった。

 

その後、インカ帝国がスペインに滅ぼされた1533年以降の織物は更に生命力を失っていく。当時スペイン人は、ありとあらゆるインカの伝承者を殺していった。例えば、文字を持たない社会で文字の代わりにキープと呼ばれる結び縄による、人口や農産物の統計や、歴史といった言語情報を専門に作製解読する仕事をしていたキープカマヨック(キープ保持者)というような、歴史であり文化の伝承者を皆殺しにした。

 

織物の世界でいうと、色の意味や模様や図柄に織り込まれた複雑なイメージを伝承する役割にあった人、キープと同じように作製と解読を専門にしていた、いわゆる織物におけるリーダーを司っていた人が全て殺された。

 

リーダーは殺されたが、織りの技術を持った人は、その後、スペイン人によって支配され、スペインの指示による織物(十字架や双頭の鷲など)を意味も分からず織らされた。人の体で例えるならば、首を切り落として、頭だけスペインを乗せた状態で、インカの手で織物を織ったようなものである。この時期に織られた織物の図像は十字架の端が大きく歪んでいたり、蝶の触覚が3本だったり、異常なものばかり。図柄の意味も分からないまま奴隷のように織らされたからである。

 

組織のトップを殺すのは支配するのに最も効率的かもしれないが、文化というものは淘汰されながらも積層していった時代の表現であり、出し手と受け手の相互作用によって成長し花開くものである。伝承者がいなくなるということは、技術が表現として機能しなくなることを意味する。まさに文化に血が通わなくなった瞬間である。以後、ペルーの織物が力を失い何の意味も持たなくなったのだ。

 

少し話はズレるが、ペルーの人にスペインは好きか?嫌いか?と聞くと、嫌いな人が多いそうだが、もちろん当時のスペイン人の行いであることは理解しているし、今のスペインに恨みはない。もっと言えば、その後、混血となり自分の中にスペインの血が流れているので、スペインを嫌うことは自己否定にもつながってしまうという複雑な心理があるのだそうだ。

 

そして、歴史上では、1821年にペルーはスペインから独立したことになってはいるが、文化的な意味では、未だ伝承は途切れたまま、本当の意味での独立はまだしていないように思える。

 

また、ペルーにおけるスペインは、日本におけるアメリカのようなもので、ペルーにいると日本もまた文化的な意味での独立はしていないのだと思う。ペルー同様、無意識で刷り込まれている欧米や白人への憧れ、美術であり文化の中心が欧米以外に存在しないかのような考え方といったものもそうだろう。

 

植民地化という欧米のスタイルは、結局、支配者と奴隷の関係の方法論である。その土地の自然環境や伝承といったつながりを断たれ、意味も分からず織物を織っているようなものでもある。形は変われども、日本の地方に◯◯銀座やリトル東京のような町がたくさんあるように、欧米のスタイルでリマや東京のような都市が世界中にある。見えないようしてはいるが、その背景には少数の支配者と多数の奴隷の関係がある。ここ10年の動きだが、日本の地方が東京や銀座に憧れ、真似をするのではなく各地の違いを魅力としはじめたように、リマや東京も、文化的な意味での欧米からの独立を考えるべきである。ペルーの織物に生命力を再び宿す未来の方が魅力的である。と同時に日本のことも考えてしまう、、、。

 

話をもどそう。そういえば、“物”が力を失うという話で思い出したことがある。以前、ある博物館で様々な時代の仏像が並べて展示してあったのだが、彫られた仏像のつくりや迫力や存在感に明らかに時代ごとの差があったのだ。なぜかと聞くと、その理由は信仰心にあった。考えてみれば当然である。仏像の存在が生きていく上で、もしくは死にゆく上で、なくてはならないものであった時代は、ものすごいクオリティの仏像がつくられる。逆に信仰心が弱まるにつれ仏像のつくりは甘くなっていく。その時代を生きる作り手の信仰心であり、人々の信じる心が“物”の質を上げ、力を与えるのだ。

 

どの時代の芸術家、アーティストも、常にその時代の人々が信じるもの、見たいものを可視化、もしくは表現してきた。それは、時に見たくないけれど目を背けてはいけない問いでもある。当然、それはアーティスト本人が見たいものでもあった。

 

では、現代社会はどうだろうか?現代に生きる我々は何を信じ、何が見たいのだろうか?大量のお金か?物に溢れた暮らしか?それでは信じる物の一つ一つの背景があまりに薄すぎる。

 

ゆえに現代は、物は溢れているが、物の力がない時代と言える。数千年という永い時間軸で物の持つ力を比べた場合、今の時代に生み出されるものは見応えのないもの、もしくは残らないものだろう。

 

しかし、生まれる時代は選べない。今の時代のアーティストは、自分は、いったい何を信じ、見たいのだろう?

 

世界中でテロが起こり、海を越えた隣国からはミサイルが発射されている時代。自分が最も信じたいものは、、、人である。人の人間らしさを信じたい。

 

では、人間らしさとは何だろうか?それはTURNプロジェクトを通じて、障害など現代社会で弱き立場にあるある人たちとの交流から学んだ。人間らしさとは“弱さ”である。強くなること、支配することを良しとする時代だが、そもそも、ヒトのはじまりは森を追い出された弱いサルである。ヒトのアイデンティティは弱さにあるのだ。弱きサルが歩き知恵をつけ、海岸、島、平地、ジャングル、山、などなど各地の多種多様な自然環境と向き合い、多種多様な文化を育ててきた。その、人と自然環境との様々な関わり方こそ、アートであり、文化であり、自分が見たいものである。その関係性は時に土地の神と呼ばれる。ペルーでは都市や町の中央にカトリック教会が人々を見下ろすようにあり、地方では大地や山の神々がしゃがんでついた手のひらの先にあった。アルパカを追う土地でのパチャママ(大地の神)の存在は、人と自然環境との関係性そのものであった。

 

自分が、今の時代に信じたいものは人間らしさであり、可視化したいものはそれぞれの土地の神さまである。それは人とその土地ならではの関係性のことである。

 

もう一度、人らしさを取り戻すために、強さをぶつけ合う現代人に最も必要なものは自身のアイデンティティである“弱さ”の解放である。

 

弱きもの、小さきもの、目に見えないもの、そういった、ささやかで微細な変化に目を向けることで、自分の中にある弱さというアイデンティティに気づきはじめることができる。

 

美術館でプシュカに糸を巻きながら、ずっと考えていた。

 

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プシュカに糸を巻いていると、いろんなことを考える。

 

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連日、手伝いに来てくれるタチアナはペルー国立美術学校付属予備校の生徒。ちなみに予備校は美術館の2階にあることが分かった。

 

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糸を巻いたプシュカを設置していきます。

 

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糸が外れないように固定します。