「伝わらない」からはじまる

カイコウラ14日目。今日も引き続き、緑色の橋のたもとの広場で編み進めた。月曜日ということもあって、ちらほらと参加者がいるといった1日だった。これまではアシスタントのような形で関係者や地元の方が一緒に編んでくれていたので、なんだかんだ彼らが参加者と対話してくれていたのだが、今日は自分1人だったので、ちょっと心細かった。英語でのコミュニケーション能力が問われることになったが、網を編んでいるということもあり、まぁ、どうにかなった。

 

そういえば、ここしばらくずっと英語での会話の中にいる。レジデンスにもShared Linesチームですでに8人(ディレクターのリンダ、アシスタントのアンバー、アーティストのオードリーとジェイソン、カメラマンのジョン、インストーラーのシェインとディーン、そして自分)と共同生活をしており、これから会期のはじまりに向けてさらに人は増えていく。名前を覚えるのにもひと苦労だが、しばらくその環境にいると、さすがに耳が慣れてくるようで、対話の中から聞き拾える言葉が増えてくる。元々知らない英単語はどうにもならないが、何を伝えたいのかは、おおよそ分かるようになってきた。(というか、分かるように言ってくれているというのもあるのだが、、、笑)

 

やり方としては、聞き拾えた言葉をヒントにその前後の会話の流れや、話し手の表情や、その時の状況から、想像力をフルに使って、話している内容に近づいていく。

 

そういえば、自分はどこに行っても同じスタイルだ。英語、ロシア語、スペイン語、ポルトガル語などなど。そこには、ちゃんと理解できない申し訳なさと、伝えきれないもどかしさといった、言語コミュニケーションでのストレスはあるのだが、自分は意外とこういったアウェイの状況が嫌いではない。

 

言葉を乗り越えるために、たくさん観察し、可能な限りのやり方で表現し伝えよう理解しようと試みる。この全感覚を使っているような感じが好きなのだ。

 

普段から慣れたコミュニケーション環境にいると、聞こえていたり、見えていても認識していなかったりといったことがよくある。要は、網膜に映っていても鼓膜が響いていても、意識していなかったら、何1つとして届いていないのと同じなのだ。

 

そこには表現の本質がある。伝える側と受取る側、互いの歩み寄りで表現が成立する。ここでの歩み寄りとは想像力のことだ。豊かな表現とは、伝える側と受取る側の豊かな想像力のことであり、私が考える豊かな未来というのは、想像力を持って丁寧に他者や自然と向き合う世界だ。

 

その根っこになるのが、分からない、伝わらないという不自由さである。不自由さがあるから分かりたい、伝えたいという気持ちが生まれ、丁寧に他者と世界と向き合うようになる。慣れてしまうと、いつしか伝わることが当たり前のようになっている。だが、「伝わらない」ことが表現の核であることを忘れてはならない。

 

不自由なコミュニケーション環境が表現を鍛え発達させる。

 

今、2階のリビングでこの日記を書いている。時間は23時。みんなは軽く飲み始めている。パソコンに向かって難しい顔をしていたのか、「Yasu, Still working」と言って、オードリーが白ワインをグラスに注いで持ってきてくれた。何かが伝わった(笑)

 

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親子で糸巻き

 

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イギリスから

 

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言葉を超えて

 

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丁寧に