そらあみ=サッカー

今日はとにかく風が強かった。台風の影響なのだろう。明日到着する東京からの船は欠航となった。青空が広がり、天気は良いのに、風が強く、うねりが大きい。高台に上がって海を見ると、錆が浜港の桟橋を越えるような、大きなうねりが押し寄せて来ており、堤防にぶつかる低いドーンという音を1日聞いていた。写真で見ると分からないが、身体感覚としては、遥か彼方から確実に近づいてきている台風の存在を感じる。堤防があるとはいえ少し不安になる。

 

そんな天候の影響もあったのか、今日は1日1人で網を編んだ。途中、三宅村漁協参事の石井さんが車で横付けして、「おい。若い漁師さん。ずいぶん網が大きくなったな。風邪ひくなよ」と声をかけてくれた。この人も“そらあみ”を楽しんで応援してくれている人の内の1人だ。漁港を使用するにあたって、交渉での出会いからはじまり、近くを通る時は必ず声をかけてくれる。他にふらりと見に来る人と言えば、副村長もたまに来てくれ、夜は食事に誘ってくれる。副村長は1人で来て、そらあみをじっと見上げ、しばらく佇んでいる姿が印象的。あとは、教育長も来てくれる。子供の参加者が少ないことを気にしてくれ、たくさんの人に見てもらえるようにしたいと言ってくれる。

 

せっかく1人だったので、今回の滞在中に見た、三宅島の漁師さんがしていた編み方を思い出しながら、いろいろ試してみた。

 

プロジェクトの現場に1人でいることには慣れている。今まで行ったプロジェクト現場のはじまりは大抵1人だった。自分の場合、土地で何かコトを起こす時、最初は1人で、単身土地に飛び込み、1人で何かをはじめ、徐々にその行為が伝播し、時間をかけて土地と人との関係性をつくりながら場に広がりを作って、1つの風景として完成に向かっていく形が多い。

 

高校卒業までサッカーをしていたのだが、プロジェクト現場で1人の時は自主練習をしている時に似ている。サッカーで言うと、リフティングしたり、ランニングしたり、筋トレしているような感じだ。人が1人増えるとパスができるようになる。パスをするには、どこにどうボールを通すのか、イメージの共有が必要となる。そらあみの場合、網の編み方はボールの蹴り方みたいなもので、イメージの共有は“空にかかった状態=完成図”である。サッカーではスペースを見つけ、見つけたスペースを瞬間的に仲間とイメージ共有し、ボールをそこにパスする。それが連続しゴールが生まれ、人はその連続するイメージの共有と実現に感動を覚える。そらあみの場合は、その連続したパスが、編み目となって視覚化される。1本の紐でつながっているから尚更そんなことを感じる。パスに個性があるように、編み方にも個性があり手跡として残っている。

 

そらあみをすることは「一緒にサッカーしようよ」と言っているのと同じようなものである。島の人とパスを交わし、漁師さんとパスを交わし(漁師さんパス上手い)、それをみんなに見てもらう。そして応援してくれる人もいる。サッカーよりすごいのは、見ている人にもパスを出しちゃうところである。

 

アートとサッカーは似ている。美術と体育は似ている。イメージし、身体を動かし、形づくられるものであるからである。

 

しかしながら、今夜行われたサッカー国際親善試合の日本vsブラジルを見たのだが、ブラジル代表は本当に楽しそうにサッカーをしていた。日本のサッカーもずいぶん強くなったが、日本とは何かが圧倒的に違う。技術や戦術がサッカーではないのだ。アートも同様である。でもほんとネイマールとカカ、楽しそうだった。

 

そらあみの試合時間も残す所4日、後半残り15分といったところだろうか。ゴールまで、あと何回パスを交わすことができるだろうか。残りの試合時間を楽しみたい。

 

そういえば、サッカーのゴールネットは網である。ゴールネットも空にかかっている。ブラジルワールドカップのゴールネットを世界中の人と編みに、そらあみをしに、ブラジルまで行くのも良いな。

風が強いので、現場を離れる時は束ねています。

束ねた網もだいぶボリュームが出てきました

ここで交わしたパスの軌跡

残り4日。試合時間だと、だいたい残り15分といったところか

パスも随分伸びました。上から数えると80目あります。