三宅島から浅草神社へ

荷物をまとめて、掃除、ゴミ捨てをして、20日間お世話になった三宅島大学本校舎(旧御蔵島会館)を後にした。

 

三宅村役場へ行き、三宅島大学の発起人である池山副村長に、出力したこのブログをレポートとして提出し、滞在活動を報告。「島でまなび、島でおしえ、島をかんがえる」という三宅島大学のコンセプトに対して、島の漁師さんに習い、島の漁師さんを巻き込みながら展開し、漁網越しに見える島に別の視点を提示したといった意味で、今回の活動を評価してもらえたように感じた。網で商品開発という提案もあった。他にも話はいろいろ展開した。そんな中、副村長の話で興味深かったのが、地方を変えるのは「よそ者。若者。馬鹿者」である。という話だった。

 

自分も含め、三宅島大学きっかけで島に来る人は、まさに、よそ者であり、若者であり、馬鹿者である。去年の9月に開校してから約1年。今回、実際に三宅島で滞在活動してみて、「三宅島大学」という言葉は、だいぶ島の人に浸透していたが、その中身がまだまだ伝わっていないのがよく分かった。

 

こういった活動は地味で時間がかかるが、確実に1人ずつ伝えていくことが重要である。地道に継続していくことが求められる。代理店の事業のように、分かりやすく打ち上げ花火のようにド派手に事業を行うことは簡単だが、それは一過性のものにすぎず、土地への定着や意識改革は難しい。

 

自分が、三宅島で網に出会ったように、これから、この島に出会い、はじまる物語が必ずある。

 

三宅島大学は三年目となる来年度で一度、一区切りするそうだ。いつまで続くか分からないが、継続するべきだと自分は思う。三宅島大学の本当の価値が伝わるのは、まだまだこれからである。よそ者、若者、馬鹿者が島に出会い、島に眠る宝を見つけ、それをまずは島の人と楽しみ、そこから世界に発信していく。自分は各地で網を編む時、必ず三宅島の話をしてきた。この後すぐに“そらあみ”を行う浅草神社でもまた、三宅島の話をするだろう。

 

島を出る船は14時と決まっている。残された時間で、お世話になった方々に挨拶まわりをした。最初は制作場所として、阿古漁港中桟橋を快く提供してくださった漁協の皆さんにご挨拶。石井参事は「東京出張か?次はいつもどって来るんだ?」と嬉しい言葉をくれた。

 

設置と制作で、本当にお世話になったキタガワさんとクニさんに残った編み紐一束を、それぞれ1つずつプレゼントしようと、電話をするとキタガワさんは船で漁に出ており、海の上にいた。電話でお礼を伝え、プレゼントは後日、三宅島大学本校舎に回収にきてもらう運びとなった。キタガワさんは「設置してる間は、俺が見といてやるから」と最後まで男らしい一言をくれた。クニさんは連絡先が分からないから、会えない。と思っていたら、たまたま港の側を歩いているクニさんを発見!お礼を伝え、編み紐を渡し、握手を交わした。クニさんは「またおいで」その一言だった。

 

14時。今日は西風が穏やかだったので、制作場所であった阿古漁港のすぐ横の錆ヶ浜港からの出港だった。毎日のように食べ物を差し入れしてくれた彦坂のばあちゃんがお見送りに来てくれ、お土産に明日葉蕎麦まで持ってきてくれた。

 

汽笛が鳴る。フェリーから、遠くに“そらあみ”がうっすらと見えた。それはまるで、消えかかる虹のようであった。

 

今日、22日の20:30に竹芝桟橋に船は着き。中2日で、25日からGTS(藝大・台東・墨田観光アートプロジェクト)での「そらあみ-浅草神社-」がスタートする。

阿古漁港、中桟橋とそらあみ