今日は月曜日。週末に比べて浅草の町は、だいぶ静かになった。昨日までに、幅9m高さ8mの空間を埋める漁網は編み上がったが、今日からは更にその漁網を長く延ばしていっている。予定としては、今日までに編み上がった分の3倍の網を編む予定である。最終的に幅9mで長さ20m程の反物を作り、それを折り返して三編み紋の形にするためである。
今日からの制作風景としては、網手の手元から長く続く漁網が空へと向かって立ち上がっているように見えるようになる。網が長くなる分その印象は強くなる。網手は編みながら後ろに下がっていくので、神社の動線である参道のすぐ近くで編んでいる状況となる。昨日までの場の見え方とは違ったものとなり、参道との距離が近づいた分、より参拝者の関心を惹くようになり、編み姿をじっと観察されたり、話かけられる機会が増えるようになった。「これは何ですか」に続いて、「どれくらいの期間編んでいるのか。どこまで編むのか」この2つの質問が増えた。
見に来る人は皆、最初に、遠くから大きく張られた“そらあみ”を発見し、近づき、次に網手の手元をしばらく観察する。そして、編むという所作の連続が伸びて行っている先の空に目を移す。といった水平方向から垂直方向への視点の変化が起きている。
漁網を編むという所作は今の浅草にはない。現在の浅草で、漁網は浅草神社の社紋である三編み紋の中や、三社祭で着る法被や浴衣の中といった形で、アイコンやデザインとして残っているのみである。そこには1400年という時間がある。いつから浅草で網の漁をしなくなったのかは分からないが、網を編み、魚を獲るという所作から生まれた浅草の文化は、ライフスタイルの変化によって遺物となり、その時間は止まったままとも言える。
観光客に“そらあみ”の説明をする時、よく「1400年前のこの辺りは海辺の小さな漁村で、、、」という話をする。
そらあみを行うことで、アイコンやデザインといたいわゆる“型”として網が結晶化し止まってしまっている時間を、もう一度1400年前とつなぎ直し、現在進行形で“網と浅草の関係”をつくっているのである。
雷門をくぐり、浅草寺にまっすぐ仲見世商店街を進むと、立ち並ぶ店舗の終わった先の左側に、浅草の成り立ちを示す絵図がガラスケースに入って、幾枚も並んでいる。その中に「浅草のあけぼの」というタイトルの1枚がある。その絵の中を眺めていると、なんと川縁の漁村に3本の棒が立ち、それぞれに網がかかった、まさに三編み紋を思わせる風景が描かれている。発見時、思わず「ここにあった!」と叫んでしまった。
浅草は、1400年という時間をつないできた土地である。1400年のその先をつくるために、1400年前と同じ、網が3つかかった、かつてと同じようで少しだけ違う風景を皆で見るために、かつてと同じように皆で網を編んでいる。
五色の色がつき、アートというフレームがきっかけとなっているが、この行為自体は、浅草が浅草たる所以を証明するための唯一無二の所作なのである。
参道に向かって延びていきます
犬の散歩に来た方や猿まわしの関係者など、日常の時間の中で普通にそらあみの話をしています
一日で編み進める長さもだいぶ長くなりました