沙弥島滞在6日目。朝9時、電話が鳴った。市役所の山家さんからの電話で「急だけど、午前中、というか10時半頃に瀬居島(本浦)の自治会長の浜田さんがワークショップの打合せに、今からそっち(海の家)に行ってもいいか?」という内容だった。今回、参加してもらう全地域の内、瀬居島の本浦の自治会長だけ、まだお会いできておらず、本浦でのワークショップ初日の日取りも決まっていなかったので、もちろん快諾した。
時間通りに浜田さんと山家さんが登場し、そらあみの内容と参加のお願いの話をさせてもらった。そして、浜田さんからの「どんな風に編むの?」という質問があり、ちょうど明日からのワークショップの準備のために、少し編みはじめていたので、その場に案内した。
浜田さんは、網のすぐそばに座って、編み針や、けた(こま)を手に取り「懐かしいな…」と一言。話を聞くと、浜田さんのお父さんは漁師さんで、編み針に糸を仕込んだり、糸自体を撚って作ったりするのが、子供頃の自分の仕事だったという。さすが、島育ちである。普通に編み針や編み糸やけたという道具に馴染みがあるのだ。
五十嵐:「ひとつ、久々に編み針に糸を仕込んでみませんか?」編み針を1つ取って手渡した。浜田さんは、迷わず編み糸を編み針に巻き付けはじめた。なんの躊躇もない。子供の頃の記憶がそうさせるのだろう。更に話しを聞くと、高さ12〜13m、長さ500mの網を家族で編んでいたという。え!?500m?!半端な長さではない。今回のそらあみは高さ5mで長さ50〜60mを考えている。それに比べたらそらあみは全然小さいではないか。さすがに驚いたので家族だけでそんなに編んでいたんですか?と聞くと、一度に全部編むのではなく、痛んだところを修復しながら使っていたそうだ。とはいえ、網という存在との距離が近い。ここ坂出の島々には、こんな人がもっとたくさんいるのだと思うとワクワクしてきた。2月8日13時〜のワークショップの日取りを決めて浜田さんと別れた。
昼過ぎ、再び市役所の山家さんからの電話が鳴った。「先日に会った与島漁業協同組合の久保組合長が、本格的に編みはじめる前に、ちょっと家に来ないか?と言っているんですが、お時間ありますか?道具も持って来てほしいとのことです」。
組合長から?これは行くしかない。道具も持って、ということは、要は腕試しである。我々がどれくらい網が編めて、今回どれくらい大変なことをしようとしているのか、その覚悟があるのか、実際にどうやって進めていくのか、といったことの確認なのだろう。まず、呼んでくれるということ自体が、気にしてくれており、どうにか実現したいと思ってくれている証拠なので、本当にありがたい話である。
約束した13時半に会いに行った。久保組合長の家は瀬居島の竹浦にある。港の近くに車を停め、近くにいた方に家の所在を訪ねると、「そこを入って」と指をさした先に、むこうからタイミング良く久保さんがやってきた。
久保さん「おお。きたか。こっちが作業場だから、こっちに入ってくれ」
五十嵐「こんにちは。よろしくお願いします!」
作業場の扉を開けると、ビックリの光景があった!壁にも天井にも所狭しと凧、凧、凧のオンパレード。久保さんの趣味は凧づくりで、なんとこの部屋を凧部屋と呼んでいる。床には新作凧の下絵が広げてあった。凧の話を聞いたり、瀬戸内海から上がった飛鳥時代の蛸壺をいただいたり、といった時間があり、その後はすぐに網を編んでみようということになった。
すると、久保家にある3世代前からの編み針を見せてくれた。竹を加工した手作りの編み針である。たくさんの種類があり。その使い込まれた編み針の存在感に、瀬戸内海と島の漁師と網の長い関係性を確認した。
自分とプロジェクトスタッフの飯高さん・塩野谷くんと一緒に編んで、久保さんに見てもらった。それなりに編める3人の姿を見て安心してくれたのか、久保さんも混じって一緒に編みながら、どうやって高さ5m長さ50〜60mの網を、5つの島の漁師さん達を巻き込んで編むかの打合せになった。
しばらく話をしながら編んでいると、久保さんの友人の漁師さんである福島さんや千田さんもやってきて、「おお。例の芸術祭の網か?」という一言からはじまり、久保さんの「おお。おまえもとりあえず一緒に編まんか」の一言で、一緒に編みはじめてくれた。さらにそこに久保さんのお父さんにあたる久保家のお爺さんもやってきた。
久保さん:「うちのじいちゃんな。この人がこの辺りで一番の編み手だから。この人巻き込まんといかん。ちゃんとお願いしろ。ちゃんと褒めて、いろいろ教えてもらえ」と、ここらで一番の編み手である久保のじいちゃんを紹介してもらった。久保のじいちゃんは、偶然にも今日が誕生日で、なんと82歳になる。ちなみに先日お会いした蛭子さんと同級生ですね。と聞いたら、当然知り合いだった。「あれは昔から女好きでな。(笑)」
杖を起き、ゆっくりと凧部屋に入ってきて「脳梗塞で体に自由がきかんのじゃ」と言いながらも、我々が編んだ網を触って、何やら確認し、うんうん分かったという感じでうなずき、納得してくれたようだった。話し声や雰囲気は本当にやさしいおじいちゃんである。
久保のじいちゃん:「それでどうするんじゃ?」
久保さん:「あの編みはじめを教えてやってくれ、最近の漁師は破れを直すんはできるが、はじめから編めるやつは、ほとんどおらんで、そんでそれは俺もちゃんとは分からんで、教えられんで」
という流れで、自分もまだ知らない方法の編みはじめのやり方を久保のじいちゃんに教えてもらった。確かに当然である。はじめの状態から網を編むことなど今の漁師はしない。それは日本中一緒である。基本は買ってきて漁で使用し、破れたら、そこだけ自分で修理する。なので、はじめは作れないけれど続きは編める。はじめをたくさん作っておけば、みんな編んでくれるかもしれないというのだ。
久保のじいちゃんは動きがゆっくりだが、確実で丁寧に教えてくれる。ただ、久保のじいちゃんにとって当たり前の技術が自分にとってはまだ難しく、簡単そうやって見せてくれるのだが、なかなか理解するのに苦労した。それでも何とかできるようになり新しい編む技術を手に入れた。
こうして、急遽呼ばれた凧部屋は、そらあみ制作開始前日の直前実践ワークショップとなったのである。飯高さんは「そんだけ編めるなら瀬居島に嫁に来んか。紹介したいやつが、おるで。財産もあるで」と何度も言われていた。笑。網が編める女性は貴重なようだ。
さらに、坂出から一時間ちょっと高松側に行った庵治町に藪さんという網の名人がいる情報なども教えてもらった。網だけをすいて(編んで)お金を稼ぎ生活し生きているそうだ。こっちにいるあいだに会いに行ってみたいものである。
結局13時半に行き、そのまま編み続け、夕方になってしまった。
久保さん:「おまえらは良い時に来た。じいちゃんの誕生日だし、これも縁やで、明日から頑張れるように飯食うていけ」「こっちでは腹いっぱいのことを“腹が起きる”っちゅうんや。ちゃんと腹が起きてから帰ってくれ。良いアートにしような」と、本当にありがたい言葉をいただき、最後はご好意でお家にお呼ばれし、ご飯までいただいて帰ったのだった。
一緒に食事をしながら瀬居島の歴史のこと、この辺りの島々は塩飽と呼び昔から、塩飽水軍と呼ばれたように良い船乗りが多く、織田信長の時代には船の周り75広は治外法権だった話や、幕末に太平洋を渡った咸臨丸(かんりんまる)の船乗りの内7人が瀬居島出身であること、その内の1人が久保さんの奥さんの先祖であることなどなど、いろんな話を聞かせてもらった。
人との出会いは縁である。網がつないでくれる縁を、網を編むように、1つ1つ大切に結んでいきたい。一結び一結びが点(結び目)となり、線(紐)でつながり、面(網)になる。そうして出来上がるのが、そらあみである。
よみがえる記憶
普遍的なデザイン
久保家に3世代前から伝わる編み針。真ん中の久保の字はじいちゃんの書いた字
凧、凧、凧。凧部屋です。
腕試し。査定されています。
見て技を盗む
編む技術も冗談も一級品
教えを請う
ワークショップ開始前日にして、すでにはじまった感がある