同じくらいの年頃の誰か

くすかき10日目。昨日は突然の雷雨に追われるように、夕方のくすかきを終えたが、今日は清々しく晴れた1日となった。朝のくすかきにも、夕方のくすかきにも10人ずつの参加があった。

 

くすかきには子供達の参加が多い。地元太宰府市内からや、お宮の近くに住んでいる方、福岡市内に住んでいる方など、いろいろな場所から参加しに来てくれる。そして、リピーターが多いので回を重ねるごとに、葉っぱを掻くのが上手くなっていくし、関係性も徐々に出来上がっていく、そして「今日は葉っぱが多い」とか「昨日に比べて少ない」とか、「枝が増えた」とか、「人が多い」とか、毎日の樟と人の変化について、自然と会話をするようになる。

 

お父さんや、お母さんと一緒にやってくる彼らは、3歳から6歳くらいが多く、それぞれに非常に個性的な性格をしており、“くすかき”という同じ場所で同じ目的をもって時間を過ごしていても、その楽しみ方にはかなりの違いがある。

 

一心不乱に葉っぱを掻き続ける人。

すぐに飽きて走りはじめる人。

枝を拾い続ける人。

木の根のまわりばかりの葉っぱを集める人。

大きな樟の木に上りたい人。

目立てをして縞模様を描きたい人。

話し続ける人。

なぜか雑草を草取りし続ける人。

 

などなど、それぞれのくすかきを楽しんでいる。でもこうして、くすかきの間どんな過ごし方をしているか箇条書きにしてみると、その内容は、くすかきに来ている大人のそれぞれの行動と良く似ている。というか、彼らの個性的な行動は、お父さんやお母さんの影響を大きく受けているようである。子供達が個性的な性格に見えていたのは、それ以上に、くすかきに集まっている大人(親)達が個性的であり、面白い人が多いということに最近気がついた。

 

子供達は学校や幼稚園が一緒という人もいれば、もちろんそうでない人もいる。自分は、子供達にとって、くすかきの場でのみ会うことができる同じ世代の人がいる状況は、すごく良いことだと思う。

 

自分も小学一年生から、地元のラグビー少年団に入っていた。そこには別の小学校の同じ世代の人がおり、自分が通っている学校とは違う世界であり、別のコミュニティがあることを当時から体感し、知っていた。子供である自分にとって、関わるコミュニティが、ある意味世界の全てである。1つのコミュニティしか知らないと、比較対象がなく、狭い見識と価値観の中でしかものごとや自分のことを考えることができない。他を知っているだけで、あっちとこっちを比べることができて心に余裕ができ、自由になれる。同世代のいろんな他者を知ることで、いろんな自分を知ることができる。

 

樟の杜で、松葉ほうきを持って、一緒に葉っぱを集めた名前も知らない同じくらいの年頃の誰かを、くすかきに来ている子供達は意識せざるを得ない。別に無理に仲良くする必要もないと思うが、なんだかきっとその存在は不思議なものに感じているだろうし、やがて、違うコミュニティであり、世界があることを大事にできるようになる。文化は自分以外を知り、他者との違いを認めるところからはじまる。

 

何年か経ち、彼らが大きくなって、偶然の再会をして、「なんだか良く分からないんだけどさ、小さい頃に、色んな人と天満宮で葉っぱ集めたんだよね」「え?!私もそれやったことあるよ。くすかきでしょ?」「じゃあ、あの時、いっしょにいたんだね」「今もやってるらしいよ」「そうだよね。樟の葉っぱは毎年落ちるもんね」「来年久々に行ってみる?」なんて会話がどこかであったりしたら、この世界を生きることは今よりも少し豊かになっていると信じたい。

葉っぱの山の大きさにあまり変化はない

未来の会話をイメージしてみる