沙弥島滞在20日目。今日は、1日沙弥島の海の家での作業。編み紐が足りなくなってきたので不足分の染色を行った。そして午後にNHKのテレビ取材があったので、その取材を受けた。
取材は沙弥島の高尾自治会長と溝渕さんと山本さんと自分とで網を編みながら行われ、その内容は、開幕まで一ヶ月を切った瀬戸内国際芸術祭について、そらあみという作品づくりに関わってみて、といった内容であった。
質問に対して、たくさん話をする中で、高尾自治会長の印象に残る話があった。
取材の方「実際に関わってみてどうでしたか?」
高尾自治会長「こうして網を編んでな、各島々がつながって、人が集う良いきっかけになったわ。最初はこんな風になるとは思うとらんかった。完成したら他の島の編んだ人も、自分のはここや言うて、見に来るしな。そうしたら沙弥島の連中とも話をするやろ。これがきっかけにもっと交流していけたら、ええことや。こんどは別の島で展示して、そこに沙弥島や他の島の連中が行ってもええしな。この一結び一結びが、関わった人の、島と島とのつながりやし、絆なんやな。この網っていうのが良かった。ここいらの人らに合っとった」
この20日間で起きたことが、ちゃんと伝わっているのが嬉しかった。
編みはじめた当初は、漁師さんから、「これ全部編むなんてできんぞ。白い網買うてきてスプレーで色付けたら、それでできるやんか」などといった声も各島々で多々あった。その「何故編むのか?」という漁師さんの真っすぐな質問に「こうして一緒に編む時間を作りたいんです」と言ったところで、「そんな、わざわざめんどいこと、せんでもええやろ」といった反応だった。
美術の1つの力として、言葉でなく、見て、感じて、体験し、伝わっていくものがある。
実際に編んでみると隣の人の編み方が気になる。上手い下手、会話をすると当然盛り上がる。回数を重ねると他の島の様子が気になるようになる。すると、競争心が生まれる。さらに編んでいると、昔の話から、漁の話、いろんな話になる。そして、集中して編む“沈黙の時間”が流れる。言葉でないコミュニケーションの時間だ。
漁師さんたちは常に厳しい自然である“海”や“風”とその身と命をさらして向き合っている。なので、理屈どうこうで説明したところで、あまり効果はないし、そんな話など興味がない。面白いものは面白いし、面白くないものは面白くないのである。はっきりしているから、むしろ信頼できる。
そんな漁師さん達が、集まって編むことを、おもしろがりつつある。体験することで変化が生じてきているのである。
最初は「それぞれに宿題で、担当した分だけそれぞれ編んできたら、空いた時間みつけてやればすぐ終わる」という話もよく出たが、今は「集まらんと、こんなん1人ではやれんで、みんなでするから、ええんや」という声がある。
表現が伝わっていっている瞬間である。表現とは出し手と受けての間に成立するものである。なので、これは、作品をどこかで作って、ポンとそこに置いても出会うことのできないことである。現場で伝えることを実践している身としては嬉しい瞬間である。
そこにいるから、そこで一人一人と向き合っているから、初めて、表現が伝わっていく状況に、変化の兆しに出会うことができるのである。
地域で行うアートプロジェクトに於いて、土地と向き合うということは、人と向き合うということである。そこで初めて、その土地で成立する作品が生まれるのである。
塩飽諸島の今を生きる人達のDNAは、そらあみに反応を示している。だからこんなにも早く編み進められる展開となっている。というか、もともと編めたのである。そして、もともと集ってできる時間の面白さも知っていたし、海や海辺や島の文化の豊かさも、わざわざ考えないでよいくらいに当たり前にあったのである。
そこに自分がやってきて色をつけ、もともとある海の文化の豊かさを、少し見やすくしたようなものである。
だから、高尾自治会長が言うように「ここいらの人らに合っとった」ということなのである。
編み紐を染めて色をつけ網を編むと、人がつながり、島々の魅力にも色がついて、それらが少し見やすくなる。
赤色を染色中
元は白色。ボールに入るとうどんに見えます
並べて干して乾かします