ブラジル24日目。お腹はゆるめで頭痛も多少残っているが、動けるようになったので荷物をまとめて再び漁師町へ。体調不良の間も含めレシフェ中心街で滞在させてくれた智哉くんにお礼を伝え、日本での再会を約束し、握手をして別れた。智哉くんはブラジルでの日本語教師の仕事を終え27日に日本に帰国する。
智哉くんが言う。「自分って、なんか、出会いと別れを大切にできないみたいなんですよね、、、何て言うか、、、いわゆる別れのシーンで泣けないというか、、、これってどうなんですかね?おかしいですよね?」
自分は答えた。「そんなことないよ。泣きたい時に泣けばいいんだよ。泣きたくないのに泣いてる方が変だよ」
この会話は、自分と智哉くんの別れる際の涙の話ではなく、日本語教師である智哉くんがブラジル人の生徒達とのお別れの時に泣けなかったということが話のきっかけになっている。
自分は、人は泣きたい時に泣くべきだと考えている。今まで何度か、泣くのもおかしいくらいなのに、いわゆる別れのシーンや泣き所といった状況に反応して泣いているかのような人を見てきた。人それぞれなので何とも他者が云々言うべきではないことだが、ドラマや映画といった別れのシーンの刷り込みで泣いているかのようで、とても違和感があった。それはまるでその状況で泣いている自分に酔っているように見えるのだ。
小さな頃から感情と涙の関係というものは不思議なものだと思っていた。自分は小さな頃かなりの泣き虫だったので、怒っても、恥ずかしくても、うれしくても、泣いていた。要は自分の場合は感情が高まった時に涙が出た。その頃は感情とそれを説明する言葉(概念)は一致しておらず、その後、状況(シーン)に対して、様々な言葉、悲しさ、淋しさ、怒り、喜び、というものを当てはめて考えるようになった。でも不思議だが、胸が熱くなって泣くのは喜怒哀楽全て同じ身体現象のように今も感じている。
涙はシーンありきではなく、感情ありきなのだ。故に泣きたい時に、感情ありきで泣くべきだ。むしろシーンが合わない時の涙の方がほんとかもしれない。
しかし、人は何故、泣くのだろう?
感情が滴になってこぼれ落ちるからだろうか?
一時泣いて感情の器が空っぽになってスッキリしても、気が付くとまた波々と満たされている。というか、感情というものは急に満ちて急に溢れてくるのだ。
タクシーと電車を乗り継ぎ、夕方に漁師町SUAPEに戻ってきた。不思議と自然に「ただいま」と小声が出た。
フェルナンドは家のいつもの場所にいた。「YASU!!!」と両手を上げて後ろにのけぞり大げさにリアクションするフェルナンドと握手を交わす。相変わらず大きな手だ。
五十嵐「もどったよ」
フェルナンド「お腹空いてないか?」
五十嵐「空いた。お昼食べずに来た」
フェルナンドは魚入りのクスクスを作ってくれた。これがまたとんでもなく美味しい。やはりブラジルで1番うまい料理はフェルナンドの料理である。「ボンボーン」と誉めると。「料理はフレイバーだ」と親指を立てるフェルナンド。
なぜか涙が出そうになった。
クスクスで頬はいっぱい。モゴモゴと口を動かす。
感情で胸の器はいっぱい。フェルナンドから視線を外した。