太宰府滞在29日目。くすかき15日目。晴時々曇り。くすのかきあげ前の最後の週末。くすのこうたきも今日と明日でおしまい。何でもそうだが、はじまってしまうと早いものである。
天気の良い週末ということもあり、朝から日中、そして夕方まで絶えず10〜20人ほど参加者がいるような1日だった。合計すると50人近くの方がやってきたことになる。
自分で言うのも変な話だが、くすかきの何がそんなに面白いのだろうか?
毎日、大樟(太宰府天満宮で1番大きな樹齢1500年といわれる樟)の下で落ち葉と向き合っている管理員の佐藤さんは、先日、「こうやってみんなでやると楽しいなぁ。子どもたちと一緒だとなんかモチベーション上がるな(笑)」と言っていた。
1つは、コミュニケーションツールとして、みんなで落ち葉を掻くことの面白さがある。
少し前になるが、久留米の染物屋さんの次男(五年前にくすかきがはじまったころから一緒にやっている)が、「ああせい(ああしろ)、こうせい(こうしろ)、と言われん(言われない)からいいんすよ。くすかきは、、、」と言っていた。
1つは、くすかきというフレーム(自分の楽しみ方)を自分で設定できるところにある。
それは、くすかきという“場”で自分なりに楽しむ方法を見つけられれば、それをある程度自由にやっていられるという、良い意味でほぼ決まり事のない場としての面白さである。逆に「何をすればいいですか?」とマニュアルを欲しがる人は辛いだろう。極端に言うと、別に何もしなくても良いのだから、、、勝手にというか自分なりに楽しめる人が集まっているのである。
などと、いろいろと理屈を考えて、並べてみたものの、結局のところ、一言で言うと「気持が良い」からくすかきしているのである。子どもたちの参加の多さがそれを証明してくれている。彼らはつまらないこと、気持がよくないこと、楽しくないことは基本的にやらない。中には友達が遊びに誘いに来ても「おれ、くすかきするけん。いいや」と断る姿にも出会った。もちろん個人差はある。
太宰府天満宮の樟の杜の中で、松葉ほうきで、春に樟の葉を掻く。この身体からこみ上げる気持良さが1番の魅力なのである。なので、くすかきが面白いのは言語化できない部分にある。
くすかきとはいったい何なのか?
その行為性の中心については、どうしても説明できない部分が残る。だからこそ面白いのである。説明できてしまうこと、言語化できてしまうことは、ある意味もうやる必要はなく、続くものではない。くすかきの面白さを考えることは、“答えがないことを問い続ける”ことなのである。そこに、自らの身体感覚として気持良いというものがある限り、終わりはない。
唯一あるとしたら、自分にとっての“くすかき”というものである。それは個人個人違うものである。その集合でくすかきはできている。
1500歳と10歳未満たち
くすかきはお話しながらでも、もちろん。
息を合わせて。
今回は豊作です。
父の指導を真剣に聞いている兄弟。その証拠が握られた拳。
薪を割る父親と眺める娘。兄2人とは少し違う良さがある。
芳樟袋に入れる楠の葉っぱを選んでいます。1年間の記憶を宿した葉っぱです。
何事もまずは挑戦からはじまる。
芳樟袋の難しい口の結び。最後まで諦めず集中してました。近くで相撲して遊ぶ仲間の誘いを断って「最後までやる」と一言。立派な大人になるでしょう。その後は一緒に相撲してました。相撲は相撲で、ありです(笑)
夕方のくすかき待ちのみなさんです。
みんなでやるとまた楽しい。
枝と葉っぱを分けています。やり方を友人に伝えてます。
縞模様を描いてみる。1人の少年が言う「なんかこれ波みたいだね」。まだ竜安寺の枯山水を見たことはないはず。これって日本人特有の感覚なのだろうか。
みんなで描いてみる。五十嵐「これ何て名前にする?」少年「“なみかき”は?」別の少年「“くすかき”でやる“なみかき”だね」