そらあみ5日目。今日は13人で編んだ。
「そらあみ−氷見−」が行われているヒミングアートセンターは堀埜(ほりの)家の石蔵をリノベーションしてつくられた空間である。
富山県氷見市の上庄川の河口に、赤く錆びた鉄板に覆われた風情のある雰囲気の建物がある。それが堀埜家の築100年の石蔵。堀埜家には、広大な敷地の中に目的別の蔵がある。建具蔵、器蔵、着物蔵、炭蔵、砂糖蔵。この赤い蔵は、元々は、家業の味噌や醤油の材料となる小麦や大豆を川から運び貯蔵するための蔵だった。その用途を終えた後、使わなくなった定置網の漁網の収納に使われていて、何十年も開けられることがなかった場所だった。そこを2006年に期間限定の展覧会場としてオープンし、2007年にリノベーション案の展示をし、2008年にヒミングの事務所兼、コミュニティーカフェ&展示スペースとしてオープンした。
氷見の名家であり、味噌醤油製造業と小型定置網の網元でもある堀埜家の御主人は、ほぼ毎日お昼休憩とお仕事を終えた夕方に顔を出してくれ、時に網針に糸を仕込んでくれたり、《そらあみ》を気にかけてくれている。最初にリサーチに来た時に定置網漁に同行させてくれたりもした。なので自分にとっては、船の上では親方だし、陸では蔵のオーナーだし、頭の上がらない存在である。そして何より体も心も声も大きい頼れる方なのだ。
そして堀埜家は氷見の定置網の歴史にも大きく関わっている。
越中式定置網発祥の地である氷見の定置網の歴史を調べると、明治34年制定の漁業法によって「定置網」という言葉が用いられるまで、富山湾沿岸では「台網」と呼ばれ、天正年間(1573〜1592年)に始まったとされている。そして、網が画期的な発展を遂げたのは、明治40年、従来敷設・操業されていた数ケ統の台網を整理してまとめ、当時宮城県で大漁が続いていた新型“日高式定置網(三角網)”が導入されてからと書かれており、どうやら、この時、導入したのが堀埜家ということになる。その後、改良され今の定置網へとなっていった。
現当主である堀埜さんの話では、明治38か39年、当時の漁業組合に3万円を借りて、定置網をはじめた。その年に11万円分の魚が獲れた。当時の3万円が現在のいくら相当になるのか分からないが、4倍近く稼ぎ、1年の内に借り入れた3万円分は充分に回収できたということになる。おそらく当時はだいぶ儲けたな。がっはっは!と、(ここでは標準語でしか書けなかったが)豪快な氷見弁で話してくれた。
これらのことから分かるように、堀埜家なくして氷見の定置網なし、とも言えるのである。そんな堀埜家の石蔵がヒミングアートセンターとなり、《そらあみ》を氷見の人たちと編んでいる。
偶然なのか必然なのか。この場所で網を編むということの意味であり、運命のようなものを感じる。
これまで《そらあみ》を全国各地で開催してきたが、平日休日共に参加者が多く楽しみ、こんなに編むことに積極的で勢いのある土地はなかった。
「編む」という行為が、この土地の力を発揮する1つの形なのかもしれない。
時を超え、氷見という土地の網の時間がもう一度動きはじめたように感じている。
氷見は「ブリの町」で有名だが、自分の感覚だと「網を編む町」である。
まあ、ブリは網で獲るから当然と言えば当然である(笑)
上庄川とヒミングアートセンター。
築100年の堀埜家の石蔵。この場所が持つものがたりは網でつながっていた。