沙弥島滞在13日目。午前中は“そらあみ”の作品設置場所である沙弥島海水浴場を管理している中讃土木事務所へ行き、作品設置に関する交渉を行い。午後は瀬居島の本浦にてワークショップを行った。
朝9時、建築家の藤田さんとアートフロントギャラリーの大木さんと3人で中讃土木事務所へ、一昨日の現場打ち合せで決まった設置方法の報告と許可申請に関する方向性の確認をさせてもらった。中讃土木事務所としては、通常時に安全に使用運営している沙弥島海水浴場に作品を設置することで、作品を目当てに来た方にも、たまたまそこに訪れた方にも、事故などが起きないように展示方法に関して指導確認することが仕事となる。
当然、何もないいつもの状態の方が心配事も少なく、それに越したことはないのだと思う。だがしかし、今回は支柱を立てて、高さ5m幅61mの網を浜辺の土手に設置しようとしているわけで、風や波といった変化する力に対応できなければならない。建築家の藤田さんが構造上の安全性についてプレゼンをし、自分は作品を通して伝えたいことと、見せ方についての考えをプレゼンした。
藤田さんは流石に建築家の方である。安全性を説明するために、構造計算した数値など、明確な情報と施工内容を証明していた。そして次のタイミングで自分は作品としての考えと、希望する設置状況を伝えた。沙弥島海水浴場(西ノ浜)は島影になっておらず、直接、海からの西風を強く受ける。当然、支柱は倒れないか?通行に妨げがないかなど、シビアな問題がそこにはある。
ところが、ありがたいことだと思ったのは、中讃土木事務所の方は職務としての役割は明確に提示しつつも、瀬戸内国際芸術祭に対して理解があり、基本は協力的で、色や見え方の心配までしてくださった。管理側の人は固い頭のイメージを勝手に持ってしまっていたが、決してそれだけではないのである。それは、何より3年前の2010年の第1回瀬戸内国際芸術祭のイメージを持っているというのが大きいのだろう。3年前は今よりももっと交渉に労力を割いたに違いない。
今日の打合せで、作品の設置方法がほぼ確定した。良い流れで話を進めることができ、ほっと一安心したのであった。
13時、ワークショップのために瀬居島の本浦へ。ここ本浦で5島(7地区)全部の一巡目を終える。今回も本当に充実した時間となった。集まってくださったのは11人の地元のお年寄り。元漁師さんやその奥さんといった方がほとんどであった。当然というか、言うまでもなく、体に刻まれた技術があるので、皆さん編むことができる。集ったお年寄り全員が編めるので、いくら漁師が多い島と言えども、なんとも不思議である。
網と向き合うと、皆さん「懐かしい」と言葉にしてくれた。横に座ったおばあちゃんが、事前の準備として我々が少しだけ編んでおいた網を見て言う。
おばあちゃん「鰆(さわら)の流瀬網(ながせあみ)と結び方が一緒やな」(網を見ただけで結び方の違いが分かることが、まず、すごいことである)
五十嵐「目の大きさもだいたい一緒ですか?」
おばあちゃん「もう少し大きかったなぁ」
五十嵐「糸の細さはどうでした?」
おばあちゃん「それはもっと、こう、細かったよ」「昔はね。“おうの木”って木の皮を割いて細くして、それをこうして、つまんで依ってな、糸車に巻いて、糸からつくったんよ。子供の頃の仕事やった。みんな家族で作ったんよ」
五十嵐「編んだことは?、いや、すいた(編んだ)ことは?」
おばあちゃん「すいたことはないけど、その頃近くで見ていたからね」
なんと“子供の頃に近くで見ていた”という記憶で網が編めるのだ。実際、少しやると具合が分かったのか、手元も素早く、しかも綺麗に編んでいた。これには驚いた。塩飽の島々は何かが根本的に違う。“網を編む”ということへのポテンシャルが高すぎる。
五十嵐「みなさんが全員編めることに驚いています」
おじいさん「ここいらは、皆、島の漁師の家族や、当然じゃ。昔とった杵柄(きねづか)や」
御夫婦で参加する人、独りで参加する人、皆さんそれぞれに本当に懐かしむように網を編んでいった。しかも本当に皆さん編むのが早いのである。若者に教えて編むより圧倒的に早い。
1人のおばあちゃんが小さな声で言った。
「うれしい」
心の底からの声であった。今まで各地で様々なワークショップをしていて、この言葉を聞いたのは初めてだった。
また別のおばあちゃんが言った
「皆で、またこうして元気に網が編めるなんてね。うれしいね。なぁ、おじいさん、ほんとによかったな」
と、隣の旦那さんに話かけていた。旦那さんは耳が遠いのか、反応はなく、ただただ網を黙々と編みつづけていた。
また、別のおじいさんが言う
「こりゃ気づいてないぞ。じいさん夢中で編んどる(笑)。よっぽど楽しいんやな。こりゃ、いいリハビリになるな(笑)」
2時間経過し、15時になったので一度終わりにし、「もう少し編みたい方は残って編んでもかまいません」というと、結局最後まで残った方は17時まで、4時間も編んでいってくれた。やはり最後は17時前に印籠を出す水戸黄門のテレビ放送を聞いて、閉めといった流れとなった。今日集まった皆さんの平均年齢はおそらく80歳近くだろう。その技術力にも体力にも記憶力にも驚かされた。
ここ塩飽諸島は“そらあみ”をするのに、最も適した土地なのかもしれない。こんなに網を編める人ばかりの土地は初めてである。かつての記憶も、共に編む雰囲気も、出会いの感動も、この網に編み込んでいく。出来上がった時に見える風景が楽しみである。
少し話は変わるのだが、帰り道、本浦の公民館のすぐ裏にある瀬居八幡宮さんにお参りした。そこに1つの石碑があった。そこには“塩飽お舟歌「おめでた」”の歌詞と由来が彫られていた。その歌詞の内容に驚いた。“枝が栄える”“葉が繁る”といった内容が出てきたのである。それは、自分が2006年から毎年参加し今年で8年目を迎える博多祇園山笠で歌われる“博多祝いめでた”の歌詞の内容と似ているのである。なにより、歌のタイトルが“塩飽お舟歌「おめでた」”と“博多祝いめでた”と、ほぼ一緒ではないか!
まさか塩飽諸島の瀬居島で博多との共通点を発見するとは思っていなかった。でもよく考えたら、この瀬戸内の海は博多の海ともつながっている。決しておかしな話ではない。“塩飽お舟歌「おめでた」”は豊臣秀吉が鳳凰丸と孔雀丸という名の御座船を造船し泉州の堺(今の大阪)の港で進水する際、秀吉の所望で歌われたそうだ。博多も戦乱で荒れ果てた町を、朝鮮出兵も見越して太閤町割で整備したのは豊臣秀吉であった。秀吉がかなりこの歌が好きであちこちで歌わせたのか、船乗りが気に入ってあちこちで歌ったのか分からないが、歌でその何らかのつながりを残し、証明している。当時は陸で移動するより船で移動した方が速くて、海に生きる人は特に博多と塩飽を近く感じていたのかもしれない。
瀬居島の年輩の方々と共に網を編み、かつての記憶を旅し、土地に対して縦軸の、垂直方向へのつながりを感じた。そして、瀬居八幡宮へ行き、歌と出会い、博多との海を介した水平方向へのつながりを感じた。瀬居島は、縦軸と横軸、時間と空間を超越した、すごい想像の旅ができるところである。その旅の扉の開け方は人の内にある想像する力である。
自宅に眠る手作りのハリ(編み針)とケタ(こま)を持ってきてくれました。本浦ではケタのことをメタと呼びます。網の目のサイズを決める“目板”からメタになったそうです。
自己紹介し、作品内容を説明中。
網の編み方を説明しています。が、みなさん編める人ばかりなので、実質は腕試しをさせられております(笑)。巨匠たちに新人の出来具合を見定められるようなものです。緊張しました。
網に触れると表情が変わります
プロ集団ということになります。皆さん活き活きと編んでいました
子供の頃、親の編み方を見ていた記憶の続きを今編んでます
網を編む時間は、家族で過ごす時間でもあった。時間はもう一度動き出した。