漁師言葉は2つの視点から生まれる

沙弥島滞在31日目。今日は午前中に市政モニターの方々へ向けての作品説明。午後からは、前回、自分が設定した網の高さが足らない(高さ5mの網を編むにしても、吊って横に網目を開くと、全体が上に引き上げられ、4m程度になってしまう)ことを発見する運びとなった瀬居島の西浦へ、中2日で向かった。

 

3日前に比べると多少人は少なくなっていたが、選りすぐりのメンバーで網を編むことができた。集合時間の13時に集まると、すぐに足りない分の網をどれくらい伸ばすかの会話がはじまった。

 

漁師さん「結局、何目編む?」

五十嵐「今現在、50目まで編んでもらっているので、あと10目お願いしたいです」

別の漁師さん「でも、目数で合わせると、編んだ人の糸の締め方やらで目の大きさが違うから、長さが合わんぞ」

五十嵐「うーん。そうですよね」

漁師さん「じゃあ、網の目を広げた時に何m欲しいんや?」

五十嵐「滑車などが入るので、4m60㎝にしたいです」

漁師さん「てことは、何目や?」

五十嵐「広げると1目の大きさが8㎝くらいになります。で、今4mくらいなので、残り60㎝ほしいです。なので、8目です。」

漁師さん「なら分かった。あと8目な。ちゅうことは、全部で58目になりゃええっちゅうことや」

別の漁師さん「でも、もう真ん中辺りは目がこまいから、もう少し編まんと長さが合わんぞ。そこは見た感じが合えばええな?少し目を大きくして合うようにしたる」

五十嵐「はい。それでお願いします」

 

58目で、1目が8㎝だから、58目×8㎝で4m64㎝。これで計算上はうまくいくことになる。あとは、漁師さんが言ったように、目の大きさが違うから、よい感じに裾が揃うように調整するしかない。その“良い感じ”というのを、やれてしまうから漁師さん達はすごい。まずきっちり決めて、それでも無理なところは、融通を利かせて、うまいことやる。「良い意味でごまかす。これができたら一流や」と、どこかの漁師さんが言っていたのを思いだした。

 

話が決まると、ほんとに仕事が早い。結局、15時前には不足分の編み足しが終了した。これで、岩黒島、沙弥島に続いて、瀬居島の西浦が完成。明日は瀬居島の竹浦に行き、週末は櫃石島へ行き、それぞれ不足分も編み足し完成させる予定。一度完成したことになっていて編み足しが必要なのは瀬居島の本浦と与島の残り2つ。しかし、この2つの地区は年輩の方が多く、人手も少ないので、もう一度集めて不足分を編むには難しい。そこで、その2つの地区の自治会長さんに事情を報告し、他の地区で不足分を足してもらうことにした。

 

今日、瀬居島の西浦は予定より早く終わったので、同じ瀬居島の本浦の分も編み足してもらえないかと相談すると、すぐに「ええよ。やるなら早う持ってこい」と言ってくれた。急いで車を沙弥島にあるレジデンスへ走らせ、瀬居島の本浦の網を取りにいった。

 

往復で20分くらいだっただろうか。それがちょうど良い休憩時間となった。戻ってきて本浦の網を広げると、「おう、きれいに出来とるやないか。さすが本浦やな。あそこは爺さんらも多いからな」と言って、早速取りかかってくれた。

 

そして、本浦の分もあっという間に編み足してくださった。早かった理由の1つは、編んだけれど途中までしかできていない端材の網を上手に使って網を足す“入れ網”という方法をとったからである。

 

“入れ網”は漁師さん達が普段、漁をしている時に網が破けたら、その破けた部分だけをきれいに切って、そこに合うように、継ぎはぎをするようなイメージで網を入れ込むことを言う。なので、入れ網は、1つ1つ目を作って編むよりも慣れているのである。

 

終わり際に、「本浦の分も編んでくれてありがとうございました!」と言うと、「編んだって言うのはおかしいで、入れ網で、不足分を足しただけや」「“編んだ”って言うと、本浦の人も気分悪いやろしな」という指摘があった。

 

“編むこと”と“足すこと”は違う。ということである。それは、本浦のことを尊重しているから、五十嵐の言葉に違和感を覚え、指摘してくれたのだ。同じ島で、同じ漁師で、知り合いであるにしても、各地区同士や各島同士で、滞在1ヶ月では分からない様々な複雑な事情や、関係性もあるに違いない。それぞれの地区や島を尊重するのは、大事なことである。

 

どこの島へ行っても、漁師さん達は網を編んでいる時、たまたま他の島についての話になると、冗談で他の島のことを揶揄したりする。だが、その裏側には、尊重の念があるのである。

 

漁師さんの言葉は、時に難しい。なぜなら、敢えて逆の意味のことを言ったりするからである。例えば、「もう一度、編みに来るので、次回もよろしくお願いします!」という別れの挨拶をすると、「もう来んでええわ」と返事がくる。漁師言葉を理解していない五十嵐は、何て返していいか分からず、黙ってしまう。しかし、もう一度来た時には、その人は編みに来てくれているのである。

 

このような“漁師言葉”を理解するには、その時の会話の状況や相手との関係性から判断するしかないのだが、よくよく考えると、物事の本質というものは1つである。そう考えると、その1つのことを、良く言っても、悪く言っても、要は本質かどうかでしかない。

 

そこにちゃんと相手との関係性や、尊重する想いがあれば、物事の本質を見極めて、それに対して2つの見方をして、言葉にして遊んだっていいのである。漁師さん達はそれを感覚的にやっているように思う。それは、海と陸を日々行き来し、生活の中に2つの視点があるからではないのだろうか。

 

ある1つの出来事があるとする。それは、陸から見たら良いことでも、海から見たら悪いことだったりする。また逆に、海から見たら良いことも、陸から見たら悪いことだったりする。そこで、ただ1つだけ言えるのは、物事の本質というものである。良い悪いというものは、その人の立場から見た、ものの見方でしかないのである。

 

海と陸、2つの視点を持った漁師という職業の方々は、物事の本質を感覚的に見極め、2つの見方をして遊ぶ。だから漁師言葉が生まれる。“漁師さんが怖い”というイメージはそこから来ているのかもしれない。陸にのみ暮らし、1つの視点しか持っていない人が、2つの視点を持った人に本質の言葉遊びを仕掛けられたら、そりゃ怖いに違いない。

2つの視点を持った彼らには、“そらあみ”はどのように見えているのだろうか

海からの視座とは、陸を中心として生きる我々にとって、物事の本質を見極めるために必要なものなのである。