千年樟の記憶を持つ人

太宰府滞在9日目。くすかき6日前。今日も朝から雨。日中は網袋づくりをして、夕方雨が止むタイミングを見計らって、山かげ亭の倉庫から鬼すべ堂へ水蒸気蒸留装置の諸々の道具類を運んだ。1tトラックの荷台いっぱいになるほどの荷物である。男性の協力がいただければありがたいと思っていた。

 

すると、電話が鳴った。「五十嵐さん。昨日は楽しかったですね。何かお手伝いすることあります?」「はい。来てもらえると助かります!」

 

こうして、昨日のお花見決起会に来てくれた地元太宰府の友人2人が駆けつけてきてくれ、網袋づくりも進んで、夕方には無事に荷物を運ぶことができた。本当にありがたい。

 

お2人は元々参道のお店の家で生まれ育ち、天満宮幼稚園から太宰府小学校、太宰府中学校と通い、本当に地元の人である。ここまで、がっつり地元の方とは実はなかなか出会えず、距離を縮めるきっかけをつかめずにいた。今年の鬼すべ神事(1月7日)に参加した時に知り合った関係で、まだ知り合って3ヶ月くらいしか経っていないのであるが、ずっと前から知っていたような気がしてしまうくらい、短い時間で良い時を過ごすことができていた。まあ、簡単に言うと気が合うのである。年齢も近い。やっと会えた感が自分の中にかなりある。

 

そんな2人と昨夜は一緒に酒を酌み交わすことができ、今日はこうして積極的に足を運んでくれた。こんなに嬉しいことがあるだろうか!

 

彼らと話をしていると、お宮の人が話してくれる太宰府天満宮とはまた違った視点の話を聞かせてくれ、非常に興味深い。

 

境内奥にある太宰府遊園地には昔テナガザルがいて、太宰府の朝はそのテナガザルの鳴き声ではじまった話とか、現在お土産物屋や梅ヶ枝餅屋や茶店になっている参道の各店舗は元々旅館で、自分の所の横は薩摩藩のお抱えの宿で、さらにその横は長州藩のお抱えの宿で、明治維新の頃、薩長同盟が結ばれる以前に裏庭で会って重要ないろんな話がされていたに違いないといった話とか、さらには、くすかきで毎年描き出す天神広場にかつて存在し、平成6年(1994年)に枯死した樟の木は、地元のみんながよく木登りして遊んだ記憶のある、とても愛された木だった話も聞かせてくれた。

 

彼らの中にある、実際に存在し直接触れ合った千年樟との記憶をくすかきで共有させてもらうことは、非常に重要な意味を持つ。自分をはじめ、くすかきにこれまで参加してくれた方々のほとんど全員が、実はというか、当然というか、本当にお宮の近くに住む地元の人間ではなかったため、かつて存在した樟の木との記憶を持つ人はいなかった。ところが、彼らの中には未来へ引継ぐべき生きた記憶がちゃんとある。それを、皆で共有することができる。

 

彼らとの出会いは、これまでくすかきに足りなかった重要な要素の1つを満たしてくれる。あの樟の木がどんな樟の木だったのか胸を張って自分の言葉で語れる人の登場なのである。

千年樟の記憶を持つ2人